大分の古代美術
仏教美術の華 倉田 文作
第二章 磨崖仏



臼杵石仏(仏頭復元前)
1)日本の石仏

大分県下、特に豊後はまさしく石仏の里である。熊野磨崖仏臼杵の石仏群についてはすでに早くから学会の注目をあつめ、小野玄妙、浜田耕作などの大先達があるいは大分元町の石仏、さては豊後石仏の大方についての論考を発している。特に浜田耕作の労作は、大正の末年に学会の注目を豊後に集めたといっていい。その後豊後の石仏中の主要作例は綿密な調査を経てあるいは史蹟に、さらには美術史的観点からの貴重性を加味して重要文化財としての指定もおこなわれ、それらの環境の整備ないし修理も続行されている。
 豊後の石仏を論ずるに先立って、わが国の石仏の歴史をふりかえってみることにしよう。その中での豊後石仏の位置づけをすることも重要と考えられるからである。周知のように石仏は中国にあっては仏教彫刻史を代表する彫刻の主流といってもよく、労作、作善の意味あいもあって各地に石窟寺院が開鑿された。雲崗といい、龍門、天龍山といい、古く六朝からしばしば中世に至るまでその労作は続けられて中国彫刻史上もっとも注目される作例を今日に伝えている。それらの石窟寺院の壁画からあるいは全像が、あるいは仏、菩薩頭が、さては仏手がえぐりとられて今日欧米、日本の博物館に展示され、中国彫刻各代の典型として世に紹介されていることも周知の事実である。日本のばあい、石造彫刻は奈良朝以降かなりの数の作例を生んでいるが、わが国には良質の石材が乏しく、また石窟寺院を開鑿するに適した場所に恵まれぬ故もあって、石仏は仏教彫刻の主流たりえず、その座を木彫に譲った。しかし、石仏の伝統が欠けているわけではなく、八世紀以降各地にかなりの秀作を残している。もっともわが国に石の造型の伝統がなかったわけではなく、古墳の構築にさいしては、規模も大きく、また表面の仕上げや構架の技法をみてもかなりに優れた技があったことを知りうるが、造型的な石彫としては今日飛鳥地方にのこる人物、動物などの古典的石彫はすくなくとも初期仏像に並行するか、またはやや先行する作例だったろうとおもわれる。奈良時代の仏教彫刻として本格の作例はさすが大和に集中する。桜井市の石位寺に伝世する如来、両脇侍の三尊像は、115cmほどのほぼ三角形の砂岩の表面に椅坐の中尊に合掌する両脇侍を配し、上方には天蓋、右端に宝瓶を副えた古式の三尊で、や押出仏に似た三尊の像容から時代を推定すれば制作は奈良時代も早いころとなろうが、その造型には細部にわたって些か模古的なにおいが否めず、にわかに制作のときを決めがたい。このころを代表する石仏としては、むしろ兵庫県加西市の山間、古法華に残る三尊仏龕をあげるべきであろう。これは石造の入母屋造の屋蓋の下に104×73cmの長方形の板面をおき、その表面に椅坐の中尊と立像の両脇侍を配し、レリーフしながら像容はほとんど丸彫りに近い。中尊の台座の下方には大形の香炉、その両側の獅子が躍動しながら頭上に両脇侍の蓮華座を支えるさまは大陸風である。唐風の顕著な奈良朝初期の石彫の佳作として彫技も卓抜、ただ残念なことに火中して損傷はかなりにひどい。奈良朝の大和石仏を代表する作例としては、奈良市内の頭塔石仏をあげることができよう。6mほどの高さの土塔の四面に十三基の石仏を配した頭塔の石仏は、豊満なモデリングの三尊に押出仏や仏にみるような天蓋をそえ、諸尊のふくよかで自然味を増した造型の風はまさしく八世紀の石彫として注目に値する。頭塔は神護景雲元年(767)に良弁僧正の高弟実忠が師の命を承けて築造したものといわれ、様式からみてもこのことは理解できる。豊後ともっとも関連する石仏としての磨崖仏に眼を向けると、その早い違例としては奈良市大和田町の滝寺磨崖仏がある。矢田丘陵の一角にあるこの寺はいままったくの無住で、しかも諸尊を刻む壁面が火中して現状はかなりに痛ましいが、高さ2.5mほどの岩肌に5区にわたって彫刻された仏、菩薩、三尊などは彫りは浅いが古式の裳懸座に坐る如来像といい、三尊の古式の布置といい、制作は明らかに奈良時代にさかのぼる。また近江の金勝<こんぜ>山の山中にある狛坂<こまさか>石仏は、花崗岩の岩肌に計15躯の仏、菩薩を刻み、特に像高の目立つ主尊の三尊一具は像容が濶達で、すこぶる特色がある。中尊の特異な両手先のかたちといい、両脇侍のやや中尊よりに身構える体勢といい、すこぶる動きがあって、この三尊はむしろ絵画的な趣致に富んでいる。彫りも概して浅く、衣文などもほとんど線彫<すじぼ>りを基調にして、この磨崖仏は画師の作かとおもわれる特色を示している。特に両脇侍の足先が両外側を向いてつくられるあたりは一段と古典的な意匠にみえる。花崗岩の表面にレリーフとして彫刻されたこの仏、菩薩は、直ちに比較すべき作例は見当らぬにせよ、すこぶる半島の匂いのつよいもので、半島の影響をうけて造顕された奈良朝末の違例とおもわれ、注目すべきものである。
 このような都近傍の磨崖仏の盛行は、やがて平安時代に至って地方に磨崖の作例を残した。その早い違例としてもっとも注目されるものに豊後における熊野石仏と関東の大谷<おおや>磨崖仏の二例がある。熊野石仏については後にふれることとして、ここでは宇都宮郊外の大谷石仏についてふれたい。ここは大谷石の名で知られる大谷寺が位置し、概ね四つの仏龕があって、第一龕(高7.5m)に千手観音立像、その向かって左方に第二龕(伝釈迦三尊)、第三龕(伝薬師三尊)、第四龕(伝弥陀三尊)の四龕がならぶ。そのうち最も注目すべきは主尊の千手観音であり、これは像容をほぼ掘り起こした石心のレリーフの上にかなりに厚手に塑土を盛って相好や衣文を塑型した技法的にも注目されるもので、大陸にはその例のめずらしくない石心塑像の一例といっていい。千手観音の像高は390cm、脇手中の前方に突出する数臂は別材でつくって本体に立ち矧付けとし、表面の塑土の厚みは最大4cmに達する。像は文化八年(1811)と伝えられる火災に遭って各所の塑土が剥落し、下半身の裳のあたりは概ね石心を露出しているが、いかにも法身の姿とみえる像容は古く、その造立はほぼ藤原期の初め、10世紀のことと考えてよかろう。その法量といい、雄偉の像容といい、技法といい、関東の石仏中もっとも注目される大作といっていい。余の三龕は、磨損の著しい第三龕など損傷の故に制作の時を知りがたいが、第一龕にくらべて様式的にも相違があり、平安後期、鎌倉時代にわたって時を追って追加されたものと考えられる。何はともあれ、第一龕の千手観音立像は、豊後における熊野石仏と奇しくもほぼ同じころに制作された磨崖仏であり、二者相ならんで東西の磨崖仏の雄と称すべきものである。
 石仏、磨崖仏を問わず、現存の違例に関する限り10世紀の作例はこうして関東の大谷、九州の熊野の二大磨崖仏に限られ、11世紀の制作と認められる例にとぼしい。ところが12世紀に入るとその作例は飛躍的にふえて、豊後には臼杵石仏群のような高肉彫りの如来像群があり、また北陸路には富山日石寺の不動三尊に阿弥陀如来、僧形を配した磨崖の大作がある。不動明王は両眼をみひらいていわゆる天地眼とせず、左手を外方に張る形制に古様を示しているが、髪は巻髪につくって平安時代の風を示し、肉どりの厚く、一種躍動する強い表現をみれば制作を藤末鎌初のころと考えていいであろう。坐像の不動明王が313cm、立像の両童士が224cmの像高をもつなかなかの大作である。山城・大和にも平安末の石仏は少なくない。これらの調査はまだ完全ではないが、形制、技法からみて平安末とおもわれる作例はめずらしくなく、京都市内にも、その山間、大和に隣接する当尾の里、さては大和の各地にこのころの作例が報告されている。13世紀の作例にくらべるとその数はやはり限られてはいるものの、今後も発見は続くであろう。このころの銘文のある作例として信州下高井郡の平穏弥勒堂に大治5年(1130)銘の弥勒仏坐像があるが、温雅な像容をみると概ねこのころの制作と考えられるものの、その銘文についてはさらに一考の要がある。

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