| 大分の古代美術 | |
| 仏教美術の華 | 倉田 文作 |
| 第二章 磨崖仏 | |
![]() 熊野磨崖仏 如来像 ![]() 熊野磨崖仏 種子曼荼羅 ![]() 熊野磨崖仏 不動明王像 |
(2)熊野磨崖仏 豊後の石仏を再考しよう。すでにふれたように、豊後の数ある石仏中もっとも制作も古く作行のすぐれているのは、熊野磨崖仏である。国東六郷満山中の胎蔵寺のさらに上方に熊野神社があり、その下方の岩肌に巨大な如来の仏頭が彫刻されている。地元では大日如来と呼ぶが、その理由は円形の頭光の上方に刻む三面の種子曼荼羅のためかとおもわれる。主尊は羅髪<らほつ>を刻み、正面する如来の頭部であり、両肩下がりまでの躰部のアウトラインまでをレリーフに表現しながら、以下の像容を省いているのは、当初から仏頭の造顕を意図したためで、それ故にこの如来の相好は一そう雄偉に、また象徴的に眺められる。 六郷満山が概ね天台系の修験に属し、四周の山肌を露出した奇岩絶壁の峨々たる風光の故に、このあたりに修験の行場が多く、従ってこの仏頭が大日如来と呼ばれたのもあえて不思議ではないが、この名称がさかのぼって何時に発するものかは定かでない。 この仏頭の西方の岩壁には像高約8mの不動明王坐像に二童士を配したやはり巨大な磨崖仏が彫刻されている。不動明王は頭に莎髻<しゃけい>を結び、左眼を眇<すが>める天地眼<てんちげん>につくる。東方に位置する仏頭とはまったく彫り口を異にし、むしろ細部を省いて下ぶくれの特異な相好を高肉に彫り、躰部は右手に宝剣をとり、左手先を外方に折るさまを表現するが、磨損も著しく、従って制作のときを明確にしがたい。おそらくは鎌倉時代に追刻されたものとおもわれる。この不動明王像に比してはるかに制作の古い仏頭の方が、螺髪の施毛<せんもう>といい、目鼻だちといい、細部に至るまで保存がほぼ完好なのは感謝すべきことである。 胎蔵寺から参道をのぼりつめて、左折すると、眼前に平地の広場が開け、その正面に巨大な如来像の相好がみえる。この巨大な壁面は上方ほど石質がよく、下方は表面まで露出して凝石を多数含むので、おそらく像の下半身は当初から省いたものであろう。それにしてもこの仏頭の雄偉な相好は、粗豪に陥りやすい磨崖仏としては異例の入念な彫り口を示すもので、頭上の羅髪にはすべて施毛を刻み、その粒の大きく、あらいさまも古風である。平安初期(9世紀)の彫像は、概して如来像においては肉髻が、そして菩薩像では髻<もとどり>が高く、頭部に荘重な趣があるが、この仏頭においても肉髻部のつよさが目立ち、特にのちの定朝様(11世紀以降)の作例においてみられるように肉髻が地髪の上に半円の輪郭を描いて判然と区別されるさまに比べると、世にいう貞観仏では肉髻と地髪部との境目が明瞭でない。いかにも頭頂が膨隆して肉髻をつくるさまをより自然に表現している。熊野磨崖仏においてもこの特色ははっきりとみることができる。額に大きな円弧を描く両眉、その下方の眦<まなじり>の切り上がったみひらきのつよい両眼、レリーフでいながら肉どりの厚い両頬のしっかりしたモデリング、そして耳朶の外方に反りかえった大きな耳、それらのどれをみても貞観仏の特色を承けたもので、この仏頭の制作は9世紀末ないし10世紀前半期のものと考えられ、豊後石仏中ではもっとも早く、またもっとも優れた作行のものとして、この熊野磨崖仏の価値はすこぶる高い。ただに豊後に限らず、日本の石仏中でももっとも注目すべき遺例である。特に筆者の興味をそそるのは、この相好に統一新羅時代の朝鮮半島の如来像との相似点を見出しうることで、近年重要文化財に指定されて広く世に紹介された長崎県対馬の海神神社の銅造如来立像、黒瀬観音堂の銅造如来坐像などの金銅仏の相好と比較すると様式的に共通点が見出される。この磨崖仏を宇佐文化の一端として捕え、その作者に半島系の巧匠を求めるためには、確たる史料を欠くが、奈良朝における例えば近江狛坂の半島系石仏の例といい、石彫の盛行した半島工人のわざが宇佐に伝えられたことも否定すべきではあるまい。狛坂といい、熊野といい、自然と一体融合した環境に恰好の石仏を見出すあたりにも共通点がある。この熊野の磨崖仏の名称はもとより定かではないが、宇佐文化の一環としてこの如来像に、東大寺大仏との関連において盧舎那仏の尊名を想像することもあながち否定できまい。それはともかく、レリーフの常として肉どりを控えながら、しかも重厚にして森厳、一種の晦渋さを示すモデリングのみごとさは、貞観彫刻の余風まだ消えやらぬころの造巧たることをうなずかせる。 次項へ 前項へ [仏教美術の華]目次へ |
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