大分の古代美術
仏教美術の華 倉田 文作
第二章 磨崖仏



臼杵磨崖仏 古園石仏

臼杵磨崖仏 山王山石仏

臼杵磨崖仏 ホキ第一群(堂ケ迫)
第一龕


臼杵磨崖仏 ホキ第一群(堂ケ迫)
第二龕


臼杵磨崖仏 ホキ第一群(堂ケ迫)
第三龕


臼杵磨崖仏 ホキ第一群(堂ケ迫)
第四龕 地蔵十王像


臼杵磨崖仏 ホキ第二群(ホキ)
第一龕 阿弥陀三尊


臼杵磨崖仏 古園石仏
大日如来像
(部分)

(3)臼杵磨崖仏

平安時代も早いころに熊野磨崖仏のごとき大作を生んだ豊後の石彫も、その後二世紀ほどの間は造像のことが絶え、いま他に10、11世紀の作例を見出せない。大規模な造像としてその後注目されるのは、11世紀末ないし12世紀の初めころに開かれた臼杵石仏群である。
 臼杵石仏は大略四群に分かれて、八龕、六十体の仏、菩薩、明王、天部が彫刻されている。これらの四群は、相互に約100m以内に位置し、古園石仏山王山石仏は、日吉神社を祀る丘陵の東西の斜面にそれぞれ一龕を開き、ホキ石仏(第一群)は畑地をはさんでこの丘陵の西側台地の斜面にほぼ山王山石仏に対面して四龕をならべ(通称堂ヶ迫石仏)、その第二群はやや北に離れ、一段下って設けられた二龕から成る。規模としてもっとも大きい古園石仏は、中央に一きわ大きく舟形の龕(深さ最大160cm)を設け、大日如来坐像(像高約270cm)を刻み、その両側に長く龕を拡げ、左方は内から如来像二躯、菩薩、観音、仏像及び多聞天を、右方は同じく如来二躯、菩薩、勢至菩薩、不動明王及び天部立像を並列する。山王山石仏は、舟形龕(深さ最大120cm)内に、如来形坐像三を配する。ホキ石仏の第一群は、右から四つの龕を並列し、第一、二龕は大きく、第三、四龕はややこれに比べて小さい。第一龕は如来坐像三(左方阿弥陀如来)、その左右に菩薩立像各一、第二龕は如来坐像三(中央阿弥陀如来、右方薬師如来)を並列する。この二龕の下方に小龕を設けて、愛染明王坐像をおき、第三龕は大日如来を中心に脇侍如来坐像二(右方阿弥陀如来)を配し、その各外側に菩薩立像各一、第四龕は地蔵菩薩半跏像を中心に左右各5躰の十王立像(それぞれ上段二、下段三)を刻む。ホキ石仏の第二群は、右より第一龕は舟形龕(深さ最大80cm)内に阿弥陀坐像、両脇侍の三尊を刻み、その右脇侍右側に立像二躯を並列し、第二龕は中央にやや大きく舟形龕を設け、弥陀坐像をおき、その両側に続く横長の龕に、各内側から阿弥陀如来四、菩薩、天部の各立像を並列し、その右端は第一龕左側の龕内に達する。
 臼杵石仏の開鑿の経緯は、判明しない。また、これらの大略四群、すべて八龕、六十躰の仏像の配列の典拠も定かではない。熊野磨崖仏はさておいても、これだけの規模の造像作善のわざが、外護者<げごしゃ>についても定かでないのはむしろ意外であり、また残念なことであるが、製作の時期については比較的容易に判断しうる。それは臼杵石仏の多くが、他の県下に数多い石仏に比して作風がきわめて正統的であり、いわば時代の様式について理解の深い仏師の手によって造立された故に、様式的判定を正確におこない得るためである。他の県下の石仏のばあいは、彫刻された仏像の形制、様式が明瞭に捕えにくい例が多く、従ってそれらの造設の時期にもかなりの幅を想定する必要がある。臼杵石仏のばあい、特にそれらの中で作行のすぐれたホキ石仏(中の特に主尊の弥陀三尊)、古園石仏(中に特に主尊大日如来像)などは、木彫の同時代の作例に匹敵し、したがってその制作の時期をより正確に捕えうるといっても誤りあるまい。これらの主要な作例についてはあらかじめ木彫の原型が木仏師の手で制作され、それがその統率、監督下に石工の手で彫刻されたことを予想しうる。特にわれわれの興味をひくのは古園石仏にみる造像技法であって、ここでは岩層(溶結凝灰岩)の下端が諸像のほぼ腰辺を通り、以下は小石まじりの粘土層となるため、上半身はすべて岩壁から彫出することができるが、下半身をみると大日如来像の両脚部、多聞天像の腰部以下を別の石材からつくって矧ぎつけている。その多聞天の下半身材を背面から木彫風に内刳<うちぐ>りし、右足の膝下の部分を立ち矧付<はぎつ>けとし、同様に中尊大日如来像の左手の肘から先を元来<ほぞ>立ち矧付けとしている。これらの工夫が木彫像の構造に似ている点が注目され、特に多聞天下半身材を内刳る技法などは、木彫像のそれに近い。これらの技法は、かならずしも石工の考え及ばざることとはいえないが、木仏師の指導のもとに造像が進められたことを想定させるものといえよう。
 臼杵石仏、特にその代表作たる古園、ホキ石仏の如きは、そもそも軟質の岩壁に開鑿された磨崖仏であるにもかかわらず、頭部などはほとんど丸彫りにちかく彫出し、中尊と菩薩像中の一躰など後頭部は壁面をはなれている。これは磨崖仏としては甚だ大胆な作法で、臼杵石仏の特色の一でもあり、それだけに時代判定を容易にしてくれると同時に、離落損傷の多い一因ともなっている。こうした原壁面から離れた諸尊の断片は、単に古園ばかりでなく、山王山、ホキの各壁で認められる。これらの修復が今後の大きな課題であることはいうまでもない。ここに附言すると、近年国立歴史民俗博物館の野外展示に充てる目的で古園の大日如来像の断片それぞれを模造し、併せて原壁の剥面のコピーをプラスチックで制作して、像の各部の残片を集合、原壁の原位置に復す企てがおこなわれ、この大日如来像がほぼ当初の像容に復すことが可能であることが確認された。この事実は今後の臼杵石仏の修復にさいして大きな指針となろう。(*平成6年3月修復工事完成)
 臼杵石仏の様式的特色にふれよう。すでに触れたように古園の中尊大日如来像やホキの弥陀三尊などの諸像は、磨崖のレリーフたるにとどまらず、頭部を丸彫りに表現し、また全面ではモデリングも充実して、造型的には丸彫りの彫像に近く、したがって模式的判定も大方のレリーフのばあいよりも容易で、製作の時期もほぼ正確に比定することができる。中でも作行のもっとも優れた大日如来坐像についてまずふれることとしたい。この像は、全高270cm(八尺九寸)をこえ、宇治平等院鳳凰堂の本尊、定朝作の阿弥陀坐像(天喜元年・1053)の283.9cmには像高でやや及ばないが、堂々たる丈六坐像として造顕されている。頭上には大ぶりの宝冠(いまその基部を除いて数個の断片となったが)をいただき、智拳印を結ぶ金剛界大日如来像であり、両肩には八の字型に冠の垂紐を垂れ、両肘を濶達に左右に張って構える像容には安定感があり、この石仏群中の中尊としての威容をそなえている。冠の垂紐の末が左右にひろがるさまがよく安定感を助長しているのも、作者の周到な配慮といえよう。相好は、両眼を著しく伏眼につくる。これは像高の充分な磨崖仏の主尊として当然の配慮といえようが、両眉は美しい円弧を描いてのびやかにみえ、両眼のまなじりはわずかに切れ上がって、平安末の仏、菩薩にみる典型的な彫り口を示し、特に上瞼の曲面にゆるみがなく、張りの充分なあたりは、石彫とはみえぬすぐれた出来ばえである。体貌の安定したさまにふさわしく、面長に比して面巾を一段と大き目につくった相好は、両耳をやや前向きに表現する故もあって一そう濶達に、古様にみえるが、これは磨崖の仏像としての当然の表現であって、その相好を引締めるかにみえる小さな唇と顎のしまりは平安末の一典型と眺められる。定朝様を承けて平安末に造立された丈六像としての特色は顕著に示されているといえよう。現状では本像の躰部は各所に摩損し、わずかに三道下の右胸をつくる二箇の断片、冠の垂紐と条帛の衣文を明示する左胸部の断片に当初の彫り口を偲ぶにとどまるが、頭部とこれらの断片にみる作風には、石仏とは思えぬほどのゆきとどいた造型力が示され、この大日如来像の作者は平安末の仏師中でも決して凡手でなかったことを物語っている。むしろ県下に遺例のすくなからぬ当時の木彫像にはこれほどの作行のものは求めえないといっても過言ではない。特にその面相、目鼻だちの周到な彫り口に多分に都ぶりを感ずるのは筆者だけではあるまい。
 この中尊の左右に平座する古園の諸尊には、残念ながらこれほどの彫技を見出すことができない。ただ向って右端に近い多聞天像のつぶらな両眼の典雅な相好に時代の特色がよく示されていることを追記しておく。
 古園の中尊についで注目されるのはホキ磨崖仏中の弥陀三尊である。この三尊も残念なことに下方の石質が彫刻に適さぬ故もあって中尊の両脚部は痛ましく摩損し、向って左方の勢至菩薩立像などは頭部の両側面が大きく離脱して現状では当初の造巧をうかがうのにいささか困難を伴なうが、中尊胸部の納衣の襟ぎわや両脇侍の天衣、条帛の衣端のかえりを附した彫り口などは、大分の石仏中でもやはり作技のすぐれたものといえよう。しかし、ここでも古園の中損にみる安定した濶達な像容、都ぶりを偲ばせる目鼻だちの的確かつ周到な彫り口は発見されず、この古園中尊がこの工房を統宰する大仏師の手に成るものとすれば、他は凡て工房中の中、小仏師の作と思われる。臼杵石仏群の規模からすると、この仕事を担当した工人の数はかなり多数であったろうし、仏、菩薩の相好、体貌の相違を、みてもそのことは容易に理解されよう。
 この古園石仏群が、大日如来を中尊に、その左右にはほぼ半丈六の仏、菩薩それに明王、天部十二躯を並列するさまは偉観であるが、仏、菩薩の大方は印相を欠落して尊名を詳らかにし難い。中に不動明王、二天王を交える群像の構成は、おそらく国東の六郷満山のばあいと同様台密の構想によるものと想像されながら、諸尊のあしらいは通途の儀軌にはみられぬ独特のもので、その典拠は知り難い。
 各像の制作の順序も判断しにくい。規模と出来ばえからみれば、古園石仏群がまさしく筆頭であり、その主尊の大日如来が仏師中の統宰者によって造立されたろうことは前途のとおり推察されるが、その開鑿の順序を軽々に想定することは差控えよう。すでにふれたような様式上の特色からみて、古園石仏の造立は11世紀末から12世紀前半にわたるころと考えられ、例えばホキ石仏群中の弥陀三尊などに認められる一種の古様は、一には工房中の地方仏師参加の故のことであり、また石仏の造立にさいしては必然的に像容と彫り口に一般の木彫(特に平安末の寄木造の木彫像)に認められる如き形姿の軽快さを予想しえないことも相俟って、一木彫成像に通ずる古様を避けえなかったものと考えられる。群中古園石仏群に制作の最も近い作例はホキ第二群、第一龕の弥陀三尊で、その規模も大きく、表現も強い。頭部は各尊とも丸彫りに近く刻み出し、張りのある充実した躰貌は古園石仏に最も近く、特に弥陀像の目鼻だちを大きく強く刻み、モデリングの引締った相好や、肩張りのゆったりとして堂々たる造型の風はみごとで、古園石仏群に相前後する臼杵磨崖仏中の古例と認めてよかろう。
 かくて、臼杵石仏の大方は平安末、概ね12世紀を中心に制作され、その一部は13世紀初頭に及んで造立されたことが予想されるが、例外としてホキ石仏中の第一群、第三龕の大日如来を中心とする五尊、第四龕の地蔵十王像は他にくらべて小規模にまとめられ、前者の造型には一種の堅さが否みがたく、明らかに鎌倉時代の制作と認められるものであり、後者は豊後の石仏に間々見受けられる主題で、この題材と彫り口からすればおそらく鎌倉末ないし南北朝頃の造立と認められる。またホキ第一群中の第一、第二龕の間、やや下方に設けられた愛染明王の小龕、同じく第二群第一龕内右下方の二尊の小龕は、損傷もひどく制作の時期を定め難いが、その位置からみても他の諸龕の完成後に追刻されたことは明らかである。なおつけ加えると、ホキ石仏の付近から発掘された不動明王像の残片一具は、坐高四尺六寸に及ぶ大作と推定され、相好にも古調がうかがわれて、藤原期の明王像中の大作の一として注目されるものがあるが、当初どこに安置されたものかは知り難い。かくて臼杵石仏群は、その規模、作行からしてもわが国の平安末石仏中でも出色の作例であり、今日その造像の経緯ないし作者らについて知り得ないことがまことに残念におもわれる。
 
次項へ 前項へ
[仏教美術の華]目次
戻る