大分の古代美術
仏教美術の華 倉田 文作
第二章 磨崖仏



菅尾磨崖仏 千手観音坐像

菅尾磨崖仏 薬師如来坐像
(4)菅生磨崖仏

県下の磨崖仏中、臼杵についで作行がすぐれたものとして、三重町の菅尾磨崖仏をあげよう。小丘の山腹に所在する凝灰岩の自然窟を整形して、その壁面に仏龕(上下600、左右881cm)を開鑿し、その壁面に千手、薬師、弥陀、十一面の四尊と毘沙門天をそれぞれ高肉に彫刻したもので、毘沙門天を除く四躯は、頭部をほぼ丸彫りに近く刻み出す。台座は裳懸座の懸裳までを刻んで荘厳するが、以下は岩層が後方に退く故もあって形を省略している。千手、十一面の頭頂の如来相だけはその下端にを設けて矧付けるが、他は手先に至るまでを彫刻し、特に千手、十一面、毘沙門天などの持物をすべて刻出しているのはおもしろい。像容は平安末通途のもので、臼杵磨崖仏中のホキ石仏群などに近く、制作もほぼ同じ頃に求めうる。作風は入念で、特に千手観音の脇手の布置の巧みさは注目され、また毘沙門天像が他に比して薄肉のレリーフに仕上げられているにもかかわらず、躰のまるみを巧みに捕え、加えて腰を左にひねり、これに応じて手足の微妙に躍動する体勢の妙には、作者の確かな巧技が示されている。彩色は今日概ね後世の補彩とかわっているが、藷尊の保存はほぼ完好といっていい。豊後磨崖仏中でも出色の例で、臼杵石仏群についで注目される磨崖の作例ということができる。
 この菅尾の諸尊は、紀州の熊野権現を勧請したものといわれ、地元では岩権現の俗称があるという。阿弥陀如来は熊野本宮の家津御子<けつみこ>大神の本地であり、薬師如来は新宮速玉<はやたま>大社の主神速玉大神の、千手観音は那智大社(旧称熊野夫須美神社)の主神夫須美大神のそれぞれ本地であって、十一面観音は若一王子社の主神大神の本地である。かく符合すれば、菅尾の岩権現はすなわち熊野三山の本地勧請と考えても宜しかろう。熊野信仰はおそらくこのころから全国的な規模にひろがり、かく豊後地方にも影響を及ぼしたものと考えられる。元来国東をはじめとする豊後の勝地は修験の行場としてのあらゆる条件をそなえ、平安末、12世紀ころから世にいう六郷満山の台密諸寺がようやく基礎を確立したであろうことは、後述する国東における経塚造営の例からも想像でき、世にいう六郷二十八山の大方がこのころから栄えはじめたものと考えられるが、磨崖仏に関するかぎり12世紀にさかのぼって国東地方の作例は見出されないのはむしろ意外といっていい。その俗称からして熊野三山の信仰と混同されやすい熊野磨崖仏は、すでに記したとおり宇佐信仰につながる造像作善の一端として9〜10世紀にさかのぼって造像されたもので、熊野信仰とはつながりをもたぬことを念のために書き添えよう。

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