大分の古代美術
仏教美術の華 倉田 文作
第二章 磨崖仏



大分市 元町磨崖仏




緒方町 宮迫東磨崖仏

緒方町 宮迫東磨崖仏





















臼杵磨崖仏 ホキ第一群
第四龕 地蔵・十王像



















大分市 岩屋寺磨崖仏







臼杵市 門前磨崖仏
(5)平安末鎌倉初期の作例

さて、眼を大分県下磨崖仏の全体に及ぼそう。県下の磨崖仏の遺例はほとんど枚挙にいとまないほどで、今日までに報告されているものの外、なお未発見のものも予想され、その制作は平安から江戸までにわたっており、文字通り石仏の宝庫といえよう。昭和49年、岩男順氏が「大分の磨崖仏」の好著を公判、本書に県下磨崖仏のほぼ全貌が紹介されているので詳しくはこれを参照されたい。本書には七十八ヶ所の磨崖仏があげられているが、これらの中で熊野磨崖仏はその制作が古く、他とかけはなれているので、いわば別格の存在といえよう。それ以外で管見の及ぶ限りの平安朝の磨崖仏をあげてみると、臼杵、大分元町、菅尾、宮迫東及び西の四ヶ所がある。これらのうち、作行からしてもっとも本格的なのが臼杵磨崖仏群であることはすでに記したとおりであり、菅尾がこれにつぐものといえよう。大分元町磨崖仏は、坐像で像高3mをこえる薬師如来を主尊として他に多聞天、不動、二童士像などを彫刻するが、この薬師如来の各部には鉄釘を打って塑土を固定する工夫を施していることが報告されている。すなわち関東の大谷磨崖仏中の千手観音像と同様に石心塑像であるわけで、技法的に注目されるが、ただ本像は何分にも像容、彫技ともかなり素朴で、制作の時期は例えば臼杵磨崖仏の諸像などに比べると正確におさえにくい。像容の大方は平安末の通形の如来像に似るが、頭部における地髪の張りが目立つあたりをみれば、制作は13世紀に入ってのものとも考えられる。いずれにせよいわゆる藤末鎌初の大作の一として注目されよう。
 宮迫東、西の磨崖仏もほぼ元町と同じころの制作と認められる。やや作技の粗放な例で、特に東の磨崖仏は元来壁画が後方に反るために、地元で大日如来と伝える中尊の如来坐像(像高365cm)と他四躯(内2躯は持国、多聞の二天)は必然的に反りかえって、一そう粗放の感をつよめるが、豊頬、肉どりの豊かな頭、躰部の造型はより藤原風を感ぜしめる。宮迫西の諸像は弥陀・釈迦・薬師の三如来を並列し、裳懸座に坐るなど古制に倣う点も注目されるが、5躰のモデリングは引締って力づよく、作風からみて鎌倉彫刻の特色がより顕著に認められる。かく彫り口からみても、東西の磨崖仏の間には明らかな相違があり、東磨崖仏の造立ののち西磨崖仏の諸像がまったく別の工房によって制作されたことを想定できよう。
 さて、これまでに挙げた平安朝(に13世紀初までの造立を含めて)の磨崖仏の分布は、前記の岩男氏の分布図で眺めると菅尾と宮迫東及び西がわずかに近接するのみで、磨崖仏間の関連性はほとんど感じられない。また、様式的にみてもそれぞれに異質であり、直接のつながりは認められない。
 鎌倉時代(13〜14世紀初)の開鑿とおもわれる磨崖仏も、その数は限られる。第一地区では千灯、仏ヶ迫、禅源寺の三ヶ所、第二地区では岩屋寺、南太平寺、曲、高瀬、鬼崎の五ヶ所、第三地区では犬飼、宮迫西などをあげることができる。岩男氏の分布図でもっとも注目されるのは、室町時代ないしそれ以降を含めると、第一地区にすべて二十六ヶ所の磨崖仏が所在していることで、これは第二地区の九、第三地区の十七ヶ所にくらべて一段と多い。特に国東地区が台密の拠点として行場を中心に磨崖仏の開鑿が促進されたことを物語るものであろう。しかし、くり返すが平安朝においては大規模な作善造像のわざがなされた折も国東地区ではこれに倣う企てはなかった。鎌倉期の磨崖仏として県下でもっともオーソドックスな作例としては、むしろ臼杵磨崖仏群中の地蔵、十王の群像をまずあげるべきであろう。すなわちホキ第一群中の第四龕に当るもので、半跏の地蔵菩薩を中心に、左右上段各二躯、下段各三躯の十王像を彫刻する。地蔵は左手は掌を仰いで宝珠をのせ、右手は屈臂、掌を前に右足を折り、左足を垂下する半跏像で、よく引締った相好のみごとさといい、太目の衣褶の的確な意匠といい、他の大方の石仏に比べると木彫像の切れ味のよさに迫り、作行にはすこぶる注目すべきものがある。十王像はそれぞれ冠をいただき、袍衣をつけ、胸前で笏を構える姿につくられ、床几に腰かける姿とかみえるが、中尊と同様衣文を太めに、両袖の袖口までを的確にあらわす彫り口はなかなかの巧技で、その彫り口と像容の特色からすると制作は鎌倉末ないし南北朝のはじめと考えられ、すなわち14世紀前半の造像とみとめられるが、
作者は世の常の石工ではなく、木彫像の技を心得た仏師であったろうと創造され、作技よりすれば県下の他の鎌倉期磨崖仏とは格段の差を示している。
 このように鎌倉の作風の顕著なオーソドックスな作例を取り除くと、元来石仏の編年は容易でない。加えて摩損の著しいばあいは、像容、肉どりのかくれた特色から辛うじて制作の年代を推定しうるのみで、特に平安、鎌倉の古例にして造立銘を伴う作例にとぼしい現状では正確な編年はきわめて困難といわねばなるまい。ここでは管見の及ぶかぎり、鎌倉時代の制作と考えうる諸例を列挙しておこう。
 平安末、鎌倉初、世にいう藤末鎌初の作例としてあげられる大作に、大分元町の磨崖仏がある。薬師如来坐像が像高3mをこえ、不動明王、二童子の中尊が約250、随侍の多聞天が260cmほどの大ぶりの磨崖仏としてかねて著名であるが、躰部の右側、肩から胸にかけての岩の裂け目には粘土を充填したり、諸所に鉄釘を打付した痕があってそのあたりに塑土による肉づけをしたことが知られる。おそらくは造像時の工夫だろうとおもわれる。関東における大谷磨崖仏中の千手観音立像などにも用いられた同種の工夫であり、ともに石質があらく、彫刻面に欠点のあらわれやすい磨崖のことであれば、当然の技法的措置といえるだろう。その意味で、作技の上でも注目される作例であるが、温雅に定朝様を承けた相好、抑揚にとぼしいモデリングに平安末の如来形の特色がうかがえるとはいえ、平安末と断定しうる根拠にとぼしく、制作は藤末鎌初という外はあるまい。
 平安風の像容を示す作例とすれば、第二に岩屋寺の磨崖仏群をあげうるが、四群、計十七躯の諸尊のうち五躯は後世の追刻といわれ、中で大作の十一面観音立像(像高224cm)にしても相好の下半は欠失し、両腕を失って損傷が著しい。ただ幸い裳や天衣の形制はほぼ原容をうかがい得る。裳の折返しのかたちや膝の上下で二段にわたる天衣のあやなし、裳裾に近くU字形を重ねる褶文などは平安末菩薩形の通途のかたちを示しているが、左腰上の条帛の垂下部が外方に靡き、裳裾の天衣がつよく翻って、巾ひろく像の下方を飾る動勢には絵画的趣致が示され、その動きと装飾性にはすでに鎌倉風が示されているといえよう。岩屋寺は宇佐八幡宮文書に、早く天喜、康平のころからその名が見出される由緒をもつが、この諸尊の造像は鎌倉期に入ってのものとみるのが妥当であろう。
 臼杵市門前の磨崖仏は、ともに坐像の三尊に加えて多聞天像と不動明王、二童子の立像を添えたもので、不動三尊は向って右端の壁面にさながら三尊像完成ののちに時を隔てず追刻したかにみえる。不動明王を向って左端に、その右方に両脇侍を随侍させる形も通途の三尊とは趣を異にする。坐像の三尊は現状磨損が目立ち、中尊の上半身はほとんど彫刻面を失って時代の判定が容易でないが、おだやかなモデリングと一種猫背の体勢をみればその制作は藤末鎌初のころに求めるのが妥当であろう。これに対して不動、二童子像はむしろ鎌倉に入っての作風を顕著に示している。

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