| 大分の古代美術 | |
| 仏教美術の華 | 倉田 文作 |
| 第二章 磨崖仏 | |
![]() 大分市 曲磨崖仏 ![]() 高瀬磨崖仏 大威徳明王像 ![]() 高瀬磨崖仏 深沙大将 ![]() 真玉町 福真磨崖仏 ![]() 国見町 千灯寺 来迎石 ![]() 犬飼磨崖仏 不動明王坐像 |
(6)鎌倉南北朝の作例 以上の藤末鎌初ころの作例に比して、より鎌倉彫刻の特色を明らかに示す諸例中、まず挙げられるのは仏ヶ迫磨崖仏であろう。定印の弥陀坐像とおぼしき如来坐像で、像高122cm、かなりに全面の摩損が目立つが、幸い相好と上半身の肉どりは原容を示している。両眉をあげ、両眼をみひらいたその相好は、ほとんど忿怒尊のそれに近い峻厳な表情を示し、その両頬の肉どりも力強く引締って鎌倉彫刻の威風を示す。制作は鎌倉期も早いころのものと認められる。 宮迫磨崖仏中の東方の諸像については、平安時代の作例中ですでにふれたが、宮迫西磨崖仏(弥陀、釈迦、薬師各坐像、像高各145cm)はそれと作風を異にし、肉髻を低目に、螺髪を粒あらく大き目に刻み、相好も躰貌も引締って緊密なモデリングに仕上げられ、 鎌倉中期ころの磨崖仏として図像的な興味をひく作例は高瀬の磨崖仏である。ここに彫刻された五尊の中尊は中央の胎蔵界大日如来(像高123cm)であり、その左右に如意輪、馬頭の二観音と右方に大威徳、深沙大将の二尊を配する。この図像の典拠は定かでない。大威徳明王、深沙大将を含むあたりをみれば、修験道の故地かとおもわれるが、作風は粗放で彫技かならずしも優秀とはいい難く、一見古様にみえながら制作は鎌倉中期以降のものであろう。 大分市永興の南太平寺磨崖仏は、第一龕に不動明王立像(像高80cm)、弥陀坐像(57cm)、菩薩立像(80cm)を、そして第二龕に像高54cmの弥陀坐像を刻む。相好など摩損して時代の判定に困難を伴なうが、小締りに引締ってまとまりのよい体貌をみれば、制作は鎌倉後期(13世紀末)のものとおもわれる。 以下鎌倉末(14世紀初)ないし南北朝と考えられる作例を列挙しておこう。その一は宇佐市四日市町の禅源寺磨崖仏で、地上から5mほどの高所に仏龕を開き、中に像高60cmほどの如来像を刻み、その下方にも坐像一躯が発見される。小像ではあるが相好も躰貌もモデリングが巧みでまとまりよく、制作は13世紀末とみられる。西国東郡真玉町の福真磨崖仏は、金剛界大日如来(像高52cm)を中心に四方に金剛界四仏、その左右に上下二段に六観音、六地蔵の坐像を、又両端に不動、多聞天の立像を配したもので、この諸尊の配置の儀軌的な典拠は見当らない。彫り口は粗豪で、特に中尊の大日如来など膝前の欠失が目立つが、堅密なモデリングには力勁さがあり、制作は南北朝を降るまい。なお磨崖仏にまじってこれは厚手の一枚石(高80、巾160、厚50cm)の表に来迎諸尊と往生者をあらわす珍しい作例が東国東郡国見町の千灯寺に伝世する。向って右下方の屋内には比丘形の往生者が合掌して来迎の諸尊を待つ姿が刻まれ、石のほぼ中央には二重円相の光背を負う弥陀坐像が上方から往生者に向い、これを囲繞して諸菩薩や奏楽する楽天、立って踊る供養菩薩などの聖衆を多数彫刻し、その左上端には不動明王、石の側面に多聞天を刻むのは豊後の石仏にその例が多い。石彫に作例のきわめてまれな弥陀聖衆来迎図の注目すべき一例である。諸尊の彫り口は浅く、総じて絵画的な趣致にまとめられているのも題材からして当然のことであろうが、中尊の往生者に向って上半身を傾ける自然な体勢、右上方2躯の立って踊る供養菩薩の自在な表現などをみれば、制作は鎌倉末ないし南北朝を降らぬものと考えられ、豊後の石仏中ではきわめて異色ある作品ということができよう。この諸尊を含む壁面の下端は削って一段の棚状の面をつくる。供養具や花を供えるためにしつらえた一段であろうか。 ここに不動明王の大作にして制作年代の把えがたい一例についてふれておきたい。すなわち大野郡犬飼の不動三尊磨崖仏であり、像高は中尊が坐像で376、二童子は立像で170cmほど、この三尊付近の岩に開かれた小さな方龕中には一石の五輪塔や板碑などを納置し、中に永徳二年設の吉弘一曇供養のための五輪塔一基のあることを岩男氏が報告しておられる。但し不動二童子とこれら五輪塔とはかかわりあるまい。不動明王は、一見巻髪に似た髪を示して、弁髪を左胸前に垂らし、両眼を瞋<いか>らして森厳の相好をつくり、右手には大き目の三鈷<さんこ>剣を、左手は外方に肘を張ってその前膊をほとんど上方にあげ、羂索<けんじゃく>をとる。そもそもこのようにいわばすこぶる不自然な左手の外方に肘を張ったかたちは、東寺講堂や同じ寺の西院御影堂の北面不動尊像のようなわが国での不動明王の初例に早くあらわれる特色であり、筆者はこの刑制がすなわち密教図像の直模であって、画像で持物の羂索を五体のアウトラインの外に出してそれを明示しようとする絵仏師の工夫から出たものと解釈しているが、東寺像にみる総髪、両眼のみひらき、左手先を外方に張る不自然な形制などの特色が、ほとんどそのままに豊後の磨崖仏に踏襲されているのは興味ある事実で、しかも豊後に数多い不動明王の大作がほとんど例外なくかかる古制に倣っているのは、その大方が(かならずしも東寺像の古形に倣ったわけではなく)古き密教図像の刑制をそのままに踏襲したためであろう。それと磨崖仏のばあい、左手の前膊を木彫像のように前方に突出せば、それを別材でつくって矧付ける必要が生じるのは当然のことであり、レリーフで彫刻するばあいは絵画と同様に図像に同様に描かれた像容に倣うのが技巧的にもより容易であったことも別の理由とおもわれる。木彫像においては、11世紀定朝作の伝承のある京都同聚院の不動明王像においては、相好ははるかに典雅となって彫り口に平安初期風の力剄さは減じているものの、総髪と両眼をみひらく古形、ならびに左手先を外方に開く特色はそのままに踏襲される。時が12世紀に移ると大方の不動明王像は、総髪のかわりに髪を螺髪にも似た巻髪につくり、両眼はその左眼を眇<すが>めたいわゆる天地眼<てんちげん>とし、坐像のばあい左手先を前方により自然に突出す形制が通形となる。それはともかく、この犬飼の不動、二同士像は、かかる古式の形制がはなはだ粗豪な彫り口で、しかもこの法量に仕上げられているので、制作のときの判断に苦しむ。中尊に鎌倉彫刻らしい豪快さが認められ、二童子には逆に誇張のすくない自然な体貌のみられる点を併せて考えて、一応鎌倉末ころの造像と判断したい。 次項へ 前項へ [仏教美術の華]目次へ |
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