大分の古代美術
仏教美術の華 倉田 文作
第二章 磨崖仏



安心院町 楢本磨崖仏




































山香町 倉成磨崖仏





香々地町 梅の木磨崖仏








川中不動(豊後高田市長岩屋)



朝地町 普光寺磨崖仏
(7)室町以降の作例

室町乃至それ以降の磨崖仏ないし石仏の例はあげるにいとまないほどで、しかもその中には像高数mの巨大な作例がまじっていることは、これまた豊後石仏の特色である。それらの中で、時代の典型として注目される数例をここに掲げよう。
 その一は宇佐郡楢本の磨崖仏であり、上下二段の凝灰岩の壁面にすべて45躯の仏、菩薩、天部、比丘形などが彫刻される。中で注目されるのは不動、二童子像で、上段に他よりも一段と大きく造顕されている。この不動坐像の向って右の壁面に応永三十五年(1428)戊申三月の墨書銘の認められていることが岩男氏により報告されている。この不動明王像の形制の特色は、前にふれた犬飼磨崖仏のそれに近く、東寺像などのような古制に則って、髪も、両眼も、左手先の外方に開くかたちも同じ特色を示している。ただ、犬飼不動明王像の峻厳な粗豪さに比べると、この楢本の不動明王像はレリーフに徹して肉どりを省いた故もあって、相好も、衣褶もよりこまやかに、絵画的な巧みさを示し、特に相好の目鼻だちにはレリーフにして立体の抑揚と巧みに表現した彫技の確かさがうかがわれる。右足裏を正面に向けてその全形を露わす彫り口などは一見素朴にみえながら雅致に富んでいる。ただ裳の折返し部があまりに大きく、派手に誇張されたかたちや、両脚前面の裳先のこれまた装飾的な意匠などは、通途の不動明王の彫像にはみられぬもので、やはり古い図像に拠る絵画的解釈とも理解され、その制作は岩男説のとおり室町初頭と考えてよいであろう。ここにつけ加えれば、この不動三尊に随侍する金剛力士像には、作技は一見粗豪ながら不動明王像にみたと同様のレリーフに徹した彫技の巧みさとのびのびとした造型の妙がうかがわれ、特にその相好の雅致は出色のものである。彫技からみて不動明王像と同作と考えられ、特に国東地方に作例の多い石造力士像の先蹤としてきわめて注目されるものである。
 宇佐郡安心院町所在の下市磨崖仏も、楢本磨崖仏の例に似て不動明王坐像(像高159cm)を主尊とし、その左右に計九躯の如来(薬師、弥陀など)、菩薩(観音坐像)、天部などを刻む。中で主尊の不動明王像がもっとも大きく、おそらく最初に造立されたものであろう。不動明王は楢本のばあいと同様形制は古様であるが、頭をわずかに右方に傾け、しかも面をわずかに斜め右方に向ける像容は一そう古風といっていい。ただ総じて彫り口は弱く、したがってモデリングは平板で、目鼻だちは当然瞋怒の相を表現しながら、一見童顔にちかく、その特色は向って右方に彫刻されている定印の弥陀、薬師坐像などにも見受けられる。作風は異にしながら、制作は楢本磨崖仏に近い室町初頭のものと考えてよいであろう。この童顔風の相好の特色は、山香町西鶴磨崖仏(定印弥陀坐像、像高100cm)などにも認められ、同じころの制作と考えられる。
 同じ山香町の倉成磨崖仏は、地蔵、十王の計七躯を龕中に彫刻したもので、特に「王」字を刻んだ王冠をいただき、瞋目、袍衣をつけて床几に坐る十王像は、相好の目鼻だちの彫刻は巧みで造型は的確、躰部も簡素な衣褶で袍のゆったりした大容を写す立体的な彫り口には鎌倉時代に盛行した十王像の風を承けた彫技が目立ち、制作は室町初頭を降るまい。
 西国東郡香々地町の梅の木磨崖仏は、方龕の上方に天蓋、その下に右手に錫杖をたて、左手に宝珠を仰ぐ地蔵菩薩坐像(像高44.5cm)を彫刻し、その左右の龕に比丘尼二、比丘一の法躰像を刻む。これらの比丘、比丘尼の三像はのちの追刻とおもわれるが、地蔵菩薩坐像は端厳な鎌倉彫刻の作風を承けたもので、制作はやはり室町期も早いころのものと認められる。
 豊後の磨崖仏中には、すでに記したように法量巨大な大作が,珍しくない。専門家を困惑させるのは、これらの大作中に通途の常識的編年を以て律し切れぬ問題作の多いことで、その筆頭は熊野磨崖仏中の不動明王、二童子像であろう。この不動明王は、相好が摩損して当初の彫り口をうかがいにくい故もあるが、両眼をみひらいた古式の相好にもかかわらず、その制作のときを知り難い。主尊たる如来像が九世紀末ないし10世紀初のわが国磨崖仏の古像の一と認められることはすでに記したが、不動明王は果してそれから何世紀を隔てて追刻されたものであろう。相好が古式な故に時代の古い大作と考え易いが、東寺二不動のような古制が豊後では室町、江戸に至るまで伝承されることが判明するので、この熊野不動明王像の造像の時期は容易に決めにくい。その濶達な相好と、細部を省いた躰部の一種茫洋たる大容の故に一応平安末乃至鎌倉初頭のころのものと想像を逞しくするにとどめよう。
 これとは大分時代を異にするとおもわれながら巨大な法量の故に注目されるのは豊後高田市長岩屋の不動三尊の磨崖仏である。河に面する壁面に刻まれた不動(像高370cm)、二童子の立像で、中尊の正面する端厳な像容に対し、特に左方の矜羯羅童子は斜右方に向って合掌して動勢を示し、作技は粗豪ながら三尊一具の構成には雅致がある。制迦童子の童顔にも写実的な自然味が失われず、三尊の制作は室町末から桃山期あたりに求められるのではあるまいか。
 大野郡朝地町の普光寺磨崖仏も、同様に巨大な不動三尊像を刻む。中尊が坐像で像高6m余、二童子立像がほぼ4mの大作であり、その彫技はすこぶる異色を出すもので、特に中尊の頭頂を低平にして相好を箱形につくり、そこに著しく太目の眉とつぶらにみひらく両眼を刻んだ異風の像容であり、その思い切った彫りの深い相好に対して条帛や裳には衣文を刻まず、通用の不動明王にはみられぬ放膽な造型の風を誇示している。これほどの放膽さは、伝統にしばられがちな鎌倉、室町の仏師にはなしえぬもので、この三尊の制作は江戸時代に入ってのことと考えられる。

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