大分の古代美術
仏教美術の華 倉田 文作
第三章 平安時代





















大分市 大山寺
 普賢延命菩薩坐像
(1)平安彫刻と大分の古仏

 平安朝は9世紀から12世紀までの四百年、日本の美術史の時代区分の中でも、もっとも長い一時代で、しかもその間の様式の変遷がめまぐるしく、起承転結のあざやかな時代である。たとえば(1)仏像の材質からみると、前の奈良時代に中国や朝鮮半島の技法を承けて金銅、塑、乾漆、、木彫などあらゆる材質がフルに用いられた多様さがしだいに整理されて、木心乾漆が、やがては木彫が彫刻の主流になったし、(2)仏像の種類からみると、時代のはじめに世にいう入唐八家などによって前代には知られていなかった密教の教義と図像が豊富にわが国に伝えられ、五大明王によって代表される明王部の仏像がはじめて日本で制作されることになったし、(3)仏像を制作する仏師たちの分布は、奈良時代の国営の造仏所からはなれて、地方にも行きわたり、銘文、材質、作風からみて明らかに在地の作家の作品と知られる水沢市黒石寺の貞観四年銘の薬師如来坐像や、無銘ではあるが作風からしてこれに近い制作と知られる会津勝常寺の薬師如来などのような地方の大作がようやく制作され、伝世することになる。(4)かたちの特色からみると、奈良時代に比べてマッシヴな、塊量性に富んだ密教らしい力強く癖のある仏像が9世紀につくられたし、またそれらの表現に、奈良朝のいわば人間を超えた鎮護国家的な風格にかわって人肌のあたたかみを加えた人間性が表面に打出されるようになったのも9世紀のことであった。これらの主として密教系の仏像のすこぶる個性的な表現は、明らかに中国風であり、晩唐仏像の影響を色濃く残していたが、時代が10世紀に移るとこの癖のつよい中国風の個性はしだいに温雅に和風化されて、日本の美術は全般に和風化の途をたどる。次の11世紀は、まさしく仏像彫刻の分野では仏師康尚と定朝の時代である。彼らの手で工夫され、完成された木彫の入念な内刳りと寄木造の技法は、結果としていかにも王朝文化たるにふさわしい典雅な仏の本様を生んだし、末法の世における浄土欣求<じょうどごんぐ>の動向にこたえる円満具足のほとけのすがたを完成したといっていい。この定朝の様式は、世に定朝様ともてはやされて、全国の仏師たちに大きな影響を与え、定朝様を承けた特に円満な如来の像は12世紀以降各地に制作されて、いわゆる阿弥陀堂の本尊となったし、またそれをまつる阿弥陀堂の堂内にはさまざまな堂内荘厳が工夫されて、11世紀半には宇治の平等院(定朝作の丈六弥陀坐像を安置)や降って12世紀の平泉中尊寺金色堂のように堂内を華麗な荘厳具と蒔絵の粋を尽して美しく飾った例を生んでいる。その様式的な完成度はすこぶる高く、その影響はすみやかに全国に及んだ。12世紀はこうして定朝様の定型化と技巧的爛熟の世紀ということができよう。大分県下には、すでに記したように、熊野磨崖仏中の如来像が9〜10世紀にさかのぼる古像とおもわれるのに、石仏においてもそれに続く作例は見当らず、また今日木彫像などにも平安初期にさかのぼる古例が発見されていない。管見の及ぶ限りでの木彫の古例は、近年指定された大分市大山寺の普賢延命菩薩坐像である。本像は、像高87.7cm、榧材の一木彫成像で、現状では十四臂に過ぎないが、元来は廿臂の延命法の本尊普賢延命菩薩像と認められる。両足部は横木の別材を矧ぐが、これを躰部材に組入れ矧付ける構造も古風で、形状、彫り口からみてその制作は10世紀末乃至11世紀初頭のものと考えられる。像はもと柞原八幡宮の普賢堂安置のものといい、今日はその神宮寺たる本寺に移坐されている。宇佐文化圏内の木彫の古例としてその存在はすこぶる注目される。
 ついで注目されるのは豊後高田市内野観音堂にある像高193cmの菩薩立像である。もと六郷満山の中心寺院の一、西叡山高山寺に在ったものと伝え、面相部や躰前面各所に焼損のあるのが惜しまれる。しかし榧材の内刳りも施さない一木彫像で、その部厚く堅実な肉付けや、さっそうとした姿態、花文の飾りを付けた列弁文帯の胸飾を共木より彫出とする所など、平安古像の様風をよく受けついでいる。制作は10世紀末頃と思われ、大山寺普賢延命坐像と並ぶ、当地方の古像として注目されるものである。なお内野観音堂には本像のほか、同じく高山寺から移されたという菩薩立像一躯、天部立像一躯などがあるが、これらは平安末期(12世紀)の制作である。

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