| 大分の古代美術 | |
| 仏教美術の華 | 倉田 文作 |
| 第三章 平安時代 | |
![]() 杵築市 奈多宮三神像 ![]() 豊後高田市 長安寺 木造太郎天及び両脇侍像 ![]() 長安寺太郎天解体写真 ![]() 長安寺太郎天胎内名 |
(2)神像の遺例 宇佐神宮は当地方における神道の拠点としてその歴史はすこぶる古い。おそらく神像彫刻の古例もこの神宮を中心として少なからず存在していたものと思われる。 元来、神道には偶像崇拝の習慣はない。神を象徴する神聖な鏡、剣その他の神器を「御魂代<みたましろ>」としてあがめ、あるいは社の背後の山や湧水などを御神体としていた。所が仏教がわが国に伝来し、朝廷の庇護の下に強い力を持ち、次々と寺が建てられ、仏像が礼拝されるようになると、人々の間にも偶像を崇拝する思想が行き渡り、神道の世界にも影響を与えるようになる。特に7世紀末頃からは、仏教普及のため日本古来の神と、仏とを融合させようとする動きが芽生え始め、8世紀に入るとそれは益々具体化する。例えば天平勝宝元年(749)奈良、東大寺大仏の鋳造を行うに当たって、宇佐八幡神をはるばる当地から奈良の京へ迎え、梨原に新殿を設けたこと(『続日本紀』)などは明らかに仏教的大事業を完成させるため、神の助力を求めた象徴的な出来事といえる。このような神と仏を習合させる動きは、やがて神像発生の母胎ともなるのである。天平宝字七年(763)には多度神宮寺で神像を造ったという記録(同寺『資財帳』)なども見え始める。 現存する神像彫刻としては、九世紀のものとして京都教王護国寺の八幡三神像、奈良薬師寺休岡<やすめがおか>の八幡三神像などがよく知られ、ついで京都松尾大社、和歌山熊野速玉大社の三神像などが遺されている、これらは仏像彫刻にも匹敵する精細な出来のものであるが、一般的には、神像彫刻は一木彫の素朴な出来のものが多い。 宇佐神宮の歴史からいえば、おそらく、平安初期にすでにこのような神像が祀られていたと考えてよいが、今日現存する神像は、杵築市奈多宮の八幡三神像と宇佐神宮若宮の五神像などが遺されるのみである。 奈多宮の三神像は、像高55.8乃至48.5cm。各榧材の丸彫り像で簡略な彩色を施している。中央に僧形の八幡神、左右に女神各一躰を並べた三尊である。八幡神は、耳たぶを太く大きく刻み、その姿は仏教彫刻の地蔵像に通ずる所があり、女神像は夫々吉祥天像にも似通うものである。制作は、平安後期、11世紀と認められる。 宇佐神宮の神像は、女神である大鷦鷯命坐像を主神とし、その四周に皇子、皇女像四体を配し、五尊としたもので、像高は38.6cm乃至27.1cmと小柄なものである。一躰が桂材、他の四躰は檜材の丸彫りで、いずれも奈多宮の三神像と同様、白土を下地とした簡素な彩色を施したものである。作風は奈多宮のそれとは異なり、又、五神像の内にも彫り口の異なるものがあるが、いずれも、至って素朴な彫り口でおだやかに彫出している。制作は12世紀と思われる。これらの神像は前に述べた教王護国寺の三神像以下の諸像のような入念の制作ではないが、素朴な彫り口にむしろ神像らしい清澄な趣を感じとることができるであろう。 ここで、特殊な神像彫刻と呼ぶべきものが当地方に存在することを一言述べておこう。それは、豊後高田市加礼川の長安寺にある木造太郎天及び両脇侍立像三躯である。この像は明治初年の神仏分離までは、六郷満山中山本寺(現在の長安寺)の背後の総鎮守である六所権現(現在の身濯神社)の主神として祀られていたものである。主神である等身大の太郎天像は、頭髪を美豆良<みずら>に結う少年の姿にあらわされ、その像内内刳の前面に記された墨書銘により、本像の本地仏は不動明王であり、平安後期大治五年(1130)の僧俗百余人の結縁により造られたものであることが明らかである。両脇侍像(各像高95cm)は小鬼の姿と童子の姿にあらわされ、主神と同時一具の制作と認められるが、この脇侍像の姿は、太郎天の本地である不動明王の脇侍、矜羯羅、制 次項へ 前項へ [仏教美術の華]目次へ |
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