| 大分の古代美術 | |
| 仏教美術の華 | 倉田 文作 |
| 第三章 平安時代 | |
![]() 国東町 岩戸寺 薬師如来坐像 ![]() 安岐町 瑠璃光寺 阿弥陀如来立像 |
(4)地方作の仏像 当地方には、前述の通り一木造りで彫法の簡古粗放ないわゆる地方作風の強い平安後期の仏像がかなり多く遺存している。特に国東半島の沿岸部から各谷間を遡ると、一ヵ寺に必ず一躰といってよい程、この種の仏像の存在が知られ、平安後期のこの地域における仏教寺院の隆盛の様が偲ばれ、修験者達が山間の各寺各坊を拠点として厳しい行の完遂に明け暮れていた様や、山間部を切り開いた小さな耕作地などで生活の資を得ていた土地の人々の厚い信仰にこれらの寺院が支えられていた有様などを優に想像させるものがある。こうした古像の大方は榧材の一木造りになり、中には、県下に多く遺る磨崖仏の表現に似て、刀の痕も荒々しく、細部を余り彫り窪めない、まるで石工が作った木彫像といいたい趣のものも見出される。 宇佐市院内町の龍岩寺に在る丈六の薬師如来坐像、阿弥陀如来坐像、不動明王坐像の三躰は、いずれも樟の巨大な一材から頭躰主要部を彫出し、背刳りを施し、両膝部に横一材を寄せて造ったもので、この豪快な木取りの風にいかにも似つかわしく、その彫法も簡潔かつ大づかみで、よく藤原仏らしい穏和な姿にまとめ上げている。この三尊は、岩山の斜面に大きく龕を刳り、そこに安置し、前を懸崖造りの堂で覆うという構成になるもので、まさに磨崖仏的木彫像として注目されるものである。 本書に図版を掲げていないが、国東町岩戸寺の薬師如来坐像、真玉町無動寺椿堂の薬師如来坐像2躯と大日如来坐像なども同じく12世紀における磨崖仏的木彫像の典型といえるものである。 等身の単独像としては安岐町瑠璃光寺にある等身の阿弥陀如来立像が注目される。榧材の一木造りで内刳りなく、平安前半期の一木造りの技法と表現が、さらに穏やかさを増したというもので、制作は11世紀とみてよい。 国見町平等寺の釈迦三尊(中尊像高82.5cm)および二天王像は、いずれも榧材の素朴な一木造りになるが、左脇侍である文殊菩薩坐像の像底に江戸時代享和元年(1801)および明治14年の墨書修理銘があり、享和の銘中に「冷泉院康平七年ヨリ享和元年マテ七百三十八年・・・・」とあることが注目される。像の制作は康平七年(1064)をさほど隔たらない11世紀の制作と認められるので、この銘記は近世の筆とはいえ、何らかの拠り所があって記したものと考えてよいであろう。制作年次の決め手を欠くが、当地方のこの種の素朴な作例を考究する上での一規準と考えて大過ないであろう。 11世紀末乃至12世紀の作例としては、宇佐市天福寺の諸像が挙げられる。これは奥院の本尊不動明王坐像と、その左右の間に神像2躯を混えておかれる57躰の丸彫り像である。像高は165cmから30cmまで様々であり、その作風にもヴァラエティがあり、後世廃絶した他の寺々からここに集められたものと考えられる。天念寺にも12世紀の制作とみられる釈迦如来坐像一躯、菩薩立像三躯、吉祥天立像一躯がある。いずれも像高1mに満たない小像で、ここの本尊阿弥陀如来立像(像高198cm)は、昭和36年、寺を離れ、埼玉の鳥居観音に移坐されている。用材は樟、檜、榧などを用い、いずれも素朴な一木彫像である。(1997年11月豊後高田市に戻った) 以上の諸像はいずれも一木造りであり、内刳りはあっても浅く、技法的にいえば平安前期のそれを踏襲したもので、仕上げは硬地に漆箔又は彩色という本格的なものではなく、材の地肌をそのまま残したものか、彩色が行われていても白土下地の簡略なものとみられ、その像容は、本格的な藤原仏の様式をよく採り入れながら、その目鼻立ちの彫り口も、肉付けの起伏だけであらわすような至って簡素なものであり、衣文も、あるものは飜波式の名残りをとどめ、またあるものは荒い溝や線を刻むだけで褶をあらわすなど、総体に大まかなまとめ方であり至って粗放なものであるが、それ故にまたいかにも誰からも親しまれそうな味わい深いものとなっている。従って正統派の彫像にみられるある種の冷たさは全くなく、荒い刀のタッチによって個性的に甚だ面白くまとめている点も注目される。 ここに紹介したのはほんの一部であるが、兎も角もこうした純朴な感じの強い平安の木彫像が驚くほど数多く遺存しているというのは、それを支えている当地の民衆の信仰心の厚さを物語るものと考えてよいであろう。全国各地に夫々特色ある地方作の平安古像は遺存しているが、これほど一地域に数多く遺存している地方は稀である。 平安後期、当地方はこのようににぎやかな仏教文化の華を咲かせている。そこには当然、寺と仏像だけでなく、経典や堂内の荘厳具、各種の法会所用の仏器仏具、即ち金工、漆工、染織品なども多く遺存していた筈である。しかし恐らく明治維新の神仏分離の際にこれらのものは散佚したとみえ、残念乍ら現地には殆んど遺っていない。 また浄土信仰の盛行に伴って平安後期にさかんとなった末法思想に基く、経典や小仏像、仏具などの経塚への埋納は当地でもさかんに行われており、また神仏習合の徴証ともいうべき懸仏の制作もさかんであった。これらについては『大分県史』美術篇に詳細に報告されている通りである。 しかし何んといっても当地における仏教美術の華は、豊富に遺存している質の良い磨崖仏や木彫像であるといって過言ではないであろう。 (完) 前項へ [仏教美術の華]目次へ |
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