大友一族 ( おおともいちぞく)
豊後に蔓莚する一族庶子家
豊後大友氏の惣領家および庶家を含む大武士団。鎌倉期武家の家族制度は分割相続を基礎とする「 惣領(そうりょう)制 」で、多数の子息中から器量により惣領(嫡子 家嫡 家督という。長子とは限らない)を定め、ほかはすべて 庶子 といった。大友氏は不文律として庶子が「大友」制を名乗ることを禁止し、庶子家は土着した本領の地名を名字とした。しかし分割相続を重ねると家の領地が漸減し、立ち行かれなくなり、どの家も 嫡子単独相続 に切り変えた。6代貞宗が 正慶(しょうきょう)2年(1333)単独相続にふみ切ったため、庶子は跡取りのない兄の家をつぐか、僧籍に入ったり、他家養子なる以外はなかった。鎌倉期に庶家の独立が多く、以後激減し反乱を起こす庶子が多くなるのはこのためである。
〈大友惣領家〉
3代 頼泰(よりやす) の時豊後に下向、 高国府(たかごう) (大字上野字御屋敷)に 守護所 を定め土着。南北朝期南軍優勢期には、 懐良(かねよし)親王 菊池 武光(たけみつ) の猛攻を受け、8代 氏時(うじとき) は 九州 探題(たんだい) 斯波氏経(しばうじつね) らを迎えて 高崎山 に 篭(こも)り対抗した。室町幕府の時代となり、 守護大名 から 戦国大名 に上昇し、21代 義鎮(よししげ) は北九州6か国 守護 職(しき) 九州探題職 将軍 相伴衆(しょうばんしゅう)となり、黄金時代を現出。永禄5年(1562)臼杵 丹生島(にゅうじま)城 に 遷(うつ)る。天文20年(1551)以来 沖の浜 に 南蛮船 が来航して貿易が行われ、 キリスト教 が栄えた。22代 義統(よしむね) の時、 朝鮮出兵 の時の失態により除国され、慶長5年(1600)の 石垣原(いしがきばる)合戦 にも大敗して滅亡した。しかし子孫は大友氏(幕府高家) 松野家として存続。
〈初代 能直(よしなお)所生の庶子家〉
詫磨(たくま)氏 次男 能秀(よしひで) を初祖とする。母は 風早禅尼(かざはやぜんに) 深妙(しんみょう) 肥後国詫磨郡神蔵荘等の所領を与えられて土着。 大友庶子家 でも三家の一に数えられる。子孫は大分市大字大在に現存。
帯刀(たてわき)氏 時直(ときなお) が初祖。母は同上。帯刀左衛門尉という。久保 徳永の祖。延応2年(1240)能直後家尼深妙が 大野荘 を諸子に配分した時、時直はすでに死去し、妻を帯刀後家といい「数子在之」とし、 中村 保田多名(ほただみょう) を与えた。建武2年(1335) 帯刀 寂応(じゃくおう) なる者が 石垣 弁分(べんぶ) を、先祖(時直)が能直より給わった由緒の地として潜在的本主権を主張し、返付された(「 郡正敏文書 」)。石垣弁分が本領で、寂応はその子孫であることがわかる。「 野津本大友系図 」には「時直―下郡―下郡孫左衛入道行信房」とある。
一万田(いちまんだ)氏 初祖は 一万田太郎 時景(ときかげ) 、兵衛尉、大和守、のち 景直(かげなお) と改める。母同上。延応2年(1240)母深妙より大野荘上村半分地頭職を与えられ、同荘内に土着した(朝地町大字 市萬田(いちまんだ)館)。 鳥屋(とや)城 を詰城とし、南北朝期一族志賀氏等と篭り、南軍菊池武光の 高崎城 来攻を阻止した(「 志賀文書 」)。昭和29年鳩山内閣の蔵相 一万田 尚登(ひさと) はその 後裔(こうえい)。系未詳( 久多羅木儀一郎(くだらぎぎいちろう) 『 一万田由緒考 』)。
鷹尾(たかお)氏 初祖は 鷹尾七郎 秀直(ひでなお) 。母同上。筑後国 山門(やまと)郡 瀬高下荘(せたかしものしょう)鷹尾 別符(べっぷ)の地頭職を 大友能直 が領有し、その跡をつぎ、同荘に乱入して 濫妨(らんぼう)したとある(「 鷹尾文書 」)。秀直はここに定着して鷹尾と称した。ただし彼は入道して三宝房と称しており、その子孫の有無は未詳。
志賀氏 能郷が初代。母は同上。仁王丸、豊前八郎、法名 信寂(しんじゃく)。延応2年(1240)母深妙により大野荘 志賀村 半分南方地頭職を譲得して志賀氏を称す。大友三家の一。南北朝末期に隣郡 直入郷 の代官職 検断職を得て、 岡城 に遷り大を致す。 北志賀氏 (惣領家)と 南志賀氏 (庶家)に分れる。 志賀 親次(ちかつぐ) は薩軍侵入の時岡城を死守した。
田中氏 大野氏 能直の子九郎入道 能職(よしもと)(基) が初祖。母同上。彼は母深妙から大野荘 下村 地頭職を分譲された。能直 墓堂(はかどう) 院主(いんず)職をも寄付され、深妙の 逆修(ぎゃくしゅ)墓のある下村 泊寺(とまりじ) に居り、二親の 菩提(ぼだい)を葬うため出家( 明真房(みょうしんぼう) )していた。のち 還俗(げんぞく)したものか泊寺は 甥(おい)の 志賀 禅季(ぜんき) に譲った(「志賀文書」)。「野津本大友系図」には、「九郎−木工助−女」と見え、その子が田中木工助( 大野 基直(もとなお) )であることがわかる。
田原氏 初祖は 泰広(やすひろ) 。母白拍子。京都で生まれる。国東 田原別符 より起こる。大友三家の一。室町幕府 奉公衆 となり一時惣領家を 凌(しの)ぐ勢力となるが、 田原 親貫(ちかつら) が叛いて滅亡。 田口 吉弘 如法寺(にょほうじ) 等の庶家を分出するが、 吉弘 鑑理(あきただ) は大友三老の一人、子 鎮種(しげたね) ( 紹運(じょううん) )は筑前 高橋氏 を 嗣(つ)ぎ 岩屋 宝満(ほうまん)城 督となり、 島津軍 の猛攻を支えて死守、ついに自刃した。
〈2代 親秀(ちかひで)所生庶子家〉
戸次(べっき)氏 初祖は 親秀 次子 重秀(しげひで) 。 大神(おおが)姓 戸次氏を嗣ぎ 戸次荘 に住す。鎌倉時代は 鎮西引付衆(ちんぜいひきつけしゅう)、室町時代は奉公衆。4代 頼時(よりとき) 弟 時直(ときなお) は 臼杵氏 の祖。 松岡 利根 清田 等が分かれるが、戦国期の 戸次 鑑連(あきつら) 臼杵 長景(ながかげ) 鑑速(あきはや) 等が有名。
野津原氏 豊後大神系 稙田(わさだ)氏 の 吉藤 (野津原とも) 忠綱(ただつな) が、 大友 能泰(よしやす) の子 朝綱(ともつな) を養育したが、幼少の時養父忠綱が死去し家臣の内訌が続き、父能泰を迎えて 野津原城 督とした。以後野津原氏は大友系によって嗣がれる。
狭間(はざま)氏 初祖は 直重(なおしげ) 。狭間大炊四郎、初名有重。阿南荘松富名(狭間村と号す)に居住し、名字とした。同氏は同荘 竜原(たつはる)村 権現岳(ごんげんだけ)城 を居城とすと。戦国期の 狭間 鎮秀(しげひで) は、島津軍に内応したため、天正16年(1588) 由布院 で滅ぼされた。
野津氏 初祖は 頼宗(よりむね) 、野津五郡、入道阿一。大野郡 野津院(のつのいん) に住しこれを名字とした。最近「野津本大友系図」が発見され、次の略系が判明した。室町期に 吉岡 と改めた(「 吉岡家文書 」)。吉岡 波津久 戸上 椎原 荒瀬 久土知 岩屋 御久里 佐土原 笠良木 長小野 小河内 等の祖。
木付(きつき)氏 親重(ちかしげ) が初祖。真玉六郎 大炊六郎。速見郡 八坂荘 木付に居住し木付氏を称した。 鹿子木(かのこぎ) 真玉 の祖。
田北(たぎた)氏 初祖は 親泰(ちかやす) 、田北 判官代(ほうがんだい)という。直入郡 朽網(くたみ)郷 田北村 に住し、田北を称した。戦国期は大友氏 加判衆(かばんしゅう) 。天正8年(1580) 鑑重(あきしげ) ( 紹鉄(じょうてつ) )は大友氏に反いた 廉(かど)で滅ぼされる。弟 鎮周(しげかね) は同6年の日向出兵で戦死。 石合(いさい) 須郷(すごう) 塩手(しおで) 小津留(おづる) 等の庶家を分出。
〈4代 親時(ちかとき) 所生の庶家〉
出羽(でわ)氏 5代 貞親(さだちか) は惣領家をついだが、子なく家督を弟の 貞宗(さだむね) に譲り、末弟 千熊丸(せんくままる)( 季貞(すえさだ) )を養子として直入郷 入田(にゅうた) 半分 玖珠郡 大隈(おおくま)村 などを譲った。貞親が出羽守であったので季貞は出羽氏を称し、 宗雄(むねお) 宗房(むねふさ) と次第相伝。宗房は正平13年(1358) 志賀黒法師丸 を養子として所領を譲った(「志賀文書」)。以後の系譜は未詳。
入田氏 貞親の弟 泰親(やすちか) (後 秀直(ひでなお) と改む)を祖とする。直入郷入田(半分か)を領し、 入田城 に居り名字とした。10代 親実(ちかざね) は大友 二階崩れの変 で殺され、子の11代 義実(よしざね) は、天正14年(1586) 大友 宗麟(そうりん) に 叛(そむ)き 島津軍 に内応し、 緩木(ゆるぎ)城 に篭る。戦後薩軍に従い 鹿見岳 に移り、日向 諸県(もろかた)郡1,500石を得て子孫が相伝した(「 入田氏系図 」)。
〈6代 貞宗(さだむね)の庶子立花氏〉
貞宗 は正慶2年(1333)嫡子単独相続にふみ切るが、既に次郎 貞載(さだのり) は筑前立花城を本拠として立花氏を称し、京都 唐橋烏丸(からはしからすま)合戦打死後も子孫は同氏を名乗る。立花城は何度も落城し、宗麟時代家人の 立花 鑑載(あきのり(とし)) が叛いて討たれ立花氏は断絶する。跡に吉弘鑑理、ついで戸次鑑連が城督となった。
〈大友能直の弟〉
古庄(こしょう)氏 小田原(こだわら)氏 近藤 能成(こんどうよしなり) の子 重能(しげよし) が祖。古庄四郎。能直の弟で、能直が豊後守護職に 補任(ぶにん)された時、 守護代 として入国し大友氏を 援(たす)けた。子 重景(しげかげ) から小田原( 来縄(くなわ)郷 の地名)を称す。重景の弟 景泰(かげやす) は3代頼泰の守護代として 書下(かきくだし)を施行している。能直末弟 仲教(なかのり)の子 亀谷仲能(かめがやつなかよし) は 大佐井(おおざい)郷 地頭。ただし彼は 評定(ひょうじょう)衆で鎌倉に在勤し、下向しなかった。
〈嫡子単独相続制以後の他家養子〉
日田氏 永秀(ながひで) の子七郎丸早世。 大友 親隆(ちかたか) 子 親満(ちかみつ) 嗣ぐ。以下すべて大友氏が嗣ぐ。 親将(ちかかど) が家臣を治め得ず、大友義鑑の堪気を 蒙(こうむ)り自刃し断絶した。
肥後 菊池氏 を嗣いだ 義鑑(よしあき) 弟 重治(しげはる) 菊池氏は南北朝合体後肥後国守護職を保持し、 能運(よしゆき) で正統断絶。跡を 阿蘇 惟長(これなが)( 武経(たけつね)) がつぎ、義鑑弟重治( 義宗(よしむね) 義国(よしくに) 義武(よしたけ) )が入るが、 甥(おい) 義鎮(よししげ) に叛き弘治3年(1557)誘殺された。
大内を嗣いだ義鎮弟 晴英(はるふさ) 大内 義隆(よしたか) を亡ぼした 陶晴賢(すえはるかた) に迎えられ、天文21年(1552) 毛利 元就(もとなり) に攻められ長門 勝山城 で自刃。治世わずか5年。
〈戦国―江戸時代の大友一族〉
筑後 立花氏 立花城督 戸次鑑連は、 高橋 鎮種(しげたね) 子 宗茂(むねしげ) を嗣とし立花城を守らせた。これが立花氏の祖であり、のち柳川藩主となり、大友一族中唯一の大名となった。
1 鑑連…宗茂…忠茂―鑑虎―鑑任…貞俶―貞則…鑑通―鑑寿…鑑賢―鑑備―鑑寛―寛治
大友氏 吉統(よしむね) 除国後、子 義乗(よしのり) は徳川家康 秀忠(ひでただ) に仕え3,300石を 知行(ちぎょう)。子 義親(よしちか) 嗣子なく断絶。義乗妹 佐子局(さごのつぼね)が弟 正照(まさてる) の子 義孝(よしたか) を養い別家を起こす。高家に列した。
松野氏 吉統の次子正照が、父除国の後松野と改め肥後細川氏に 寄寓(きぐう)。子孫は幕府に仕えた。
[渡辺 澄夫]
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