大友氏時 ( おおともうじとき)
高崎城の築城者?
?−1368 南北朝期の武将。 大友 貞宗(さだむね) の七男。 大友 氏泰(うじやす) の同母弟。母は 少弐盛経(しょうにもりつね) の娘とも 少弐 貞経(さだつね) の娘ともあるが、盛経の娘( 持正傑尼(そうじそうけつに) )とするのが妥当。童名宮松丸。通称孫三郎。刑部大輔、従四位下。兄氏泰から家督を譲られた。応安元年(正平23、1368)没。法名は大応寺殿神州天祐あるいは吉祥寺殿前刑部郎中神州天祐。なお、吉祥寺殿は関東での法名という。
〈突如登場する氏時〉
『 大友家文書録 』によると、貞和4年(正平3、1348)8月氏泰は弟氏時に家督を譲ったが、国政は氏泰が握っていたという。このことは、観応3年(正平7、文和元 1352)9月の 足利 義詮(よしあきら) 袖判下文(そではんくだしぶみ)によって明白であるが、氏時の登場は劇的である。氏時の幼年 少年時代を証明するものは系図以外にない。したがって、いつ元服し、尊氏の 偏諱(へんき)をいつ賜わったかなど全て不明である。それが、家督を譲られる約4か月前の貞和4年4月、 北朝 方の武将某が豊後に向けて進発するので速やかに同意し、同道すべしと、国東郡 都甲(とごう) 荘の 都甲 惟元(これもと) に命じたのである。その書式は守護等の意志を伝える「 書下(かきくだし)」で、しかも「 源(みなもと)」とのみ署名し、その下に 花押(かおう)をすえるものである。この書下の発給からすれば、『大友家文書録』が述べるような氏泰の国政権執行という事態は一考を要することになろう。
〈氏時が帯した守護 職(しき)と恩賞地〉
『大友家文書録』氏時譜によると、豊後 豊前 筑後 肥後4か国 守護職 を帯したとみえるが、このうち豊後 豊前両国守護職は兄氏泰から譲り受けたものである。肥後国守護職は延文4年(正平14、1359)8月に 補任(ぶにん)された。当時は、 懐良(かねよし)親王 以下 南朝 軍と、氏時と 少弐 頼尚(よりつね) ら北朝軍が筑前 筑後 豊後で攻防をくり返していた時期であった。その北朝軍の中心勢力大友氏時に対する恩賞であろう。2年後の延文6年2月、肥後国守護職は 阿蘇 惟澄(これずみ) に与えられた。これは、阿蘇氏を北朝方に誘いたい氏時の推挙によるもので、氏時には 闕国出来(けっこくしゅったい)次第替わりを与える旨約束されている。しかし、惟澄は誘いに応じなかったらしく、貞治元年(正平17、1362)2月には 阿蘇 惟村(これむら) を肥後国守護職に推挙している。惟村の肥後国守護職補任は同年10月で、氏時には代替の守護職が約束されている。翌貞治2年9月、豊前国守護職の代替として筑後国守護職に補任された。氏時が氏泰から譲られた 所領所職(しょりょうしょしき)は、相模国 大友荘 、 上野(こうづけ) 越後 伊勢 美濃 筑前 筑後 肥前 肥後 豊前 豊後以下国々散在所領等と所職となっている。このほか、氏時が得た恩賞地は、正平6年(観応2、1351)肥前国 与賀(よが)荘 豊後国 高田(たかた)荘 、文和2年(正平8)筑前国 上座(じょうざ)郡 肥後国隈牟田荘東方等地頭職、延文4年 菊池 武光(たけみつ) 同兄弟一族等跡半分、筑後国 生葉(いくは)荘地頭職、貞治元年越後風間入道跡 河内国田井荘 摂津国貴志荘 闕所(けっしょ)分となっている。貞治3年、氏時が幕府に提出した 当知行(とうちぎょう)分は総計で67を数える。その内豊後には半数以上の36が確認される。
〈高崎城の築城と南朝軍との攻防〉
氏時が家督を継いだ翌貞和5年、長門 探題(たんだい) 足利 直冬(ただふゆ) ( 尊氏(たかうじ) の実子、 直義(ただよし) の養子)が 高師直(こうのもろなお) に追われ九州に入った。これを受け入れたのが少弐頼尚である。直冬の濫発する空手形の所領給与で、たちまち九州を三分する一大勢力となった。氏時の異腹の兄 氏宗(うじむね) や 戸次(べっき) 野上 都甲 久恒(ひさつね) 成恒(なりつね) 尾形(おがた)氏 らが同調した。直冬討伐のため尊氏らは九州に向かうが、中央で発生した「 観応(かんのう)の 擾乱(じょうらん) 」により、南北対立がより一層複雑化の様相を呈することになる。直義の南朝への降伏、尊氏 直義の和解、尊氏の南朝への降伏がそれで、尊氏方の大友勢も同様の行動を取っている。例えば、 鎮西管領(かんれい) 一色道猷(いっしきどうゆう) と懐良親王の連合が成立すると、氏時も加担して直冬と戦うなど、互いに自己の利害得失によって離合集散する状態であった。文和2年の筑前国御笠郡 針摺原(はりすりわら)合戦 のあと直冬は九州を離れ、九州は再び南北対立が激化し南朝軍の隆盛期を迎えた。文和4年(正平10)肥前 小城(おぎ)城 に一色道猷を攻めた南朝勢は、日田 玖珠 由布 狭間を経て 国府 に攻め入った。氏時は 守護所 で迎え撃ったらしく、なすすべもなく降伏してしまった。南朝軍は大神 宇佐 城井(きい)を経て博多へと疾風のように駈け抜けた。その後、大友軍が北朝に復帰すると、南朝軍は再び豊後に侵入して来た。延文3年10月挟間経由で侵入して来た南朝軍と大友軍は高崎山の西麓赤松(別府市)で対陣する。つまり、この時の大友本陣が 高崎城 であったと考えられるのである。以後、延文4年 康安2年(正平17 貞治元、1362) 応安4年(建徳2、1371)と高崎城攻めが敢行されるが落ちることはなかった。貞治2年、菊池武光に攻められ落城、氏時も負傷したとする説もあるが、同年の筑後国守護補任からも否定される。応安元年3月21日没。
[橋本 操六]
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