大友氏泰 ( おおともうじやす)
マザーコンプレックスだった?
1321−1362 南北朝期の武将。大友6代 貞宗(さだむね) の五男。母は 少弐盛経(しょうにもりつね) の娘とも、 少弐 貞経(さだつね) の娘ともある。盛経の娘( 持正傑尼(そうにしょうけつに) )とするのが妥当。童名千代松丸。通称孫太郎。 大炊助(おおいのすけ)、式部丞、従五位下。貞治元年(正平17、1362)没。「 常楽寺蔵大友系図 」 「 志賀文書 」等は正慶2年(元弘3、1333)10月3日没あるいは11月3日没とするが、これは誤り。法名は同慈寺殿獨峯清巍。
〈家督相続と 源(みなもと)姓〉
鎮西探題(ちんぜいたんだい) 攻略の密約に従って博多に出陣中の貞宗は、戦死を覚悟してか全 所領所職(しょりょうしょしき)を五男千代松丸(後氏泰)に譲った。 嫡子単独相続 の始まりである。相続は建武2年(1335)4月段階で美濃国仲村荘地頭職を帯していることから一応確認できる。しかし、9月時点では貞宗と無関係の肥後国 守護 職(しき) を帯していること、兄 貞載(さだのり(とし)) が豊後 肥前守護職を帯しているらしいことから、譲状どおり相続されたかは疑問が残る。同年10月、14代執権 北条 高時(たかとき) の子 時行(ときゆき) が鎌倉幕府の復活を計って反乱を企てた。これにより、大友貞載 千代松丸兄弟は時行擁立の 諏訪頼重(すわよりしげ) 追討の軍勢催促に応じて出陣するが、 足利 尊氏(たかうじ) の叛意が明らかとなったことにより、尊氏討伐軍に編成された。貞載は 中務卿(なかつかさきょう)親王 を将とする一隊の副将の一人として竹下に向かい、千代松丸は 新田 義貞(よしさだ) 軍として箱根路へ向かった。貞載らは12月12日伊豆佐野山で尊氏軍に応じ、天皇軍を京に追撃した。千代松丸らは一旦京に引き返したあと山崎に再出陣するが破れ、建武3年正月9日尊氏方に降った(『 太平記(たいへいき) 』)。一時、京を征圧した尊氏も、北から入京した 北畠(きたばたけ)勢に追われ、丹波 摂津を経て九州に落ちた。その途中の建武3年2月15日、千代松丸兄弟は尊氏の 猶子(ゆうし)となり、後日それぞれに氏の一字が与えられ、氏泰 氏宗(うじむね) 氏時(うじとき) と名乗り、源姓を称することになる。
〈氏泰が帯した守護職と恩賞地〉
氏泰が帯していた守護職の内、最も早く確認できるのは建武2年時点の肥後国守護職で、次は同4年の豊後 肥前 日向3か国。肥後国は確認できないので日向国との交換とも考えられる。日向国守護職も暦応3年(興国元、1340)時点、氏泰の手からはなれている。豊後 肥前両国は康永元年(興国3、1342)8月まで確認できるが、貞和4年(正平3、1348)時点では豊後 豊前両国守護職となっている。氏泰が豊前国守護職を 安堵(あんど)されたのは康永4年以後である。山口隼正は『南北朝期九州守護の研究』で、氏泰が帯した守護職は、豊前国は観応2年(正平6、1351)11月から翌3年5月、肥前国は元弘3年から康永元年まで、肥後国は建武2年9月、日向国は建武4年10月、豊後国は建武元年から観応3年としている。兄貞載をどのように位置づけるかで、氏泰の守護職にも異論が出てくる。現在のところ定説はない。守護職安堵のほか、与えられた恩賞地は、建武3年の肥後国山本荘 千田荘 健軍宮領等地頭職、同4年の越後国紙屋荘(得宗領)、同年の筑前国 怡土(いと)荘(大仏維貞跡)、観応2年の筑前国遠賀荘 宗像西郷、豊前国黒田荘( 少弐 頼尚(よりなお) 跡)が確認できる。
〈マザーコンプレックスだった?〉
貞宗が全所領所職を千代松丸に譲るに当たっては、もし千代松丸に後嗣が出生しない時は、異腹の弟亀松丸(氏宗)に譲るようにと条件を付している。このことは、千代松丸が極めて 腺(せん)病質であったためによるものと考えられる。貞順 貞載ら兄の母と千代松丸の母が同一人物なのかどうかを証明する史料に欠けるが、同一人物であるとすれば腺病質な千代松丸を 溺愛(できあい)したと考えられ、そうでないとすれば強引に家督を譲らせたと考えられる。貞宗が予想したように、氏泰には後嗣は出来なかった。氏泰は貞宗が示した氏宗への家督移譲を無視して同母弟氏時へ家督を譲った。貞和4年8月のことである。この移譲にも母の力が大きく作用したものと考えられる。 天境霊致(てんきょうりょうち) (貞和2〜4年、 万寿寺(まんじゅじ) 住持、永徳元年<弘和元、1381>建仁寺41世 同年没)の著「 無規矩(むきく) 」によると、「 持正傑尼、豊州大友(氏泰)母、興聖寺檀那也、千人之英万人傑、大法門中大檀越、駕願輪来現女身」「大丈夫漢気英霊、女子叢中暫寓形」と、智勇才徳が万人に勝れたる人柄であり、男子にまさる気質であると絶賛している。正傑尼の生存は延文4年(正平14、1359)時点でも確認できるので、氏時への家督移譲に関与していることは間違いなかろう。この偉大なる母の後見は氏泰を 萎縮(いしゅく)させたらしく、貞和4年2月には尊氏から「そなたの最近の行動を聞いて大変驚いている」と申し送られていること、また、観応元年10月の 足利 直冬(ただふゆ) 挙兵には少弐頼尚と共に直冬に味方するという噂が尊氏に届いているなど、氏泰の行動には多くの不安材料があった。これら不安材料が氏時への家督移譲を早めたのかもしれない。
[橋本 操六]
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