大友貞親 ( おおともさだちか)
臨済禅招へいの文化人
1246−1311 鎌倉時代の武将。大友5代家督。「 常楽寺蔵大友系図 」は寛元4年(1246)生まれ、応長元年(1311)没、64歳とするが、生年からすれば66歳となり矛盾する。他の資料には生年 年齢の記述はなく、没年応長元年7月19日のみを記す。父は3代 頼泰(よりやす) とする系図と4代 親時(ちかとき) とする系図がある。母は 戸次(べっき)太郎親時入道 道恵(どうけい) 娘とするものが一本ある。他は母の記述はない。通称太郎とあるものも一本だけで、他は幼名も通称も記さない。大友系図中、最も古い写本である 野津本「北条系図 大友系図」 は親時の子に位置付け、 蔵人(くらんど) 新蔵人 左近大夫とのみ記す。他の系図にみえる官途には、 左近将監(さこんのしょうげん) 左近大夫将監 刑部少輔 出羽守がある。叙位も従四位下 従四位上 従五位上と一定しない。法名は万寿寺殿玉山正温。
〈家督相続〉
「常楽寺蔵大友系図」によると、永仁3年(1295)9月兄親時が没したが、嫡子 秀直(ひでなお) が幼少であったため、父頼泰の命で貞親が家督を継いだという。貞親50歳のこととなる。さて、貞親の父として頼泰説 親時説が系図にはみえるが、貞応元年(1222)生まれの頼泰の子とすれば、貞親は25歳の時の子となる。また、嘉禎2年(1236)生まれの親時の子とすれば、親時11歳の時の子となり無理がある。ところが、永仁3年親時80歳没とする系図もある。これに従うと、建保3年(1215)生まれとなり、父頼泰より7年も早く出生したことにより採用できない。したがって、貞親は親時の弟とするのが正しいことになり、野津本「大友系図」は家督関係だけを示したものということになる。家督を継いだ貞親は、将軍 久明親王 の命により朝廷に参内し従四位上に任じられ、出羽守に補せられ、先例どおり 鎮西(ちんぜい)奉行 職に補せられたという。10年後の嘉元3年(1305)貞親は鎌倉に出仕して将軍久明親王に謁見した後、執権 北条相模守 平貞時たいらの,さだ,とき にも会っている。貞時は貞親の性格に好感を示し、 平(たいら)姓と 諱(いみな)字を与え、以後、貞親と名乗るようになったという。応長元年病を得て家督を舎弟 貞宗(さだむね) に譲った。同年7月19日没。
〈史料の少ない貞親〉
『 史料綜覧 』が採録している貞親の史料は2点しかない。その一つは弘安4年(1281)6月6日条の 蒙古(もうこ)合戦 記事、他の一つは嘉元3年8月条で、筑前国 怡土(いと)荘をめぐる裁判の記事である。また、史料集『 増補訂正編年大友史料 』所収のものも7点と少なく、しかも2点は記録であり、1点は推定史料である。貞親は『伏敵編』によれば、6月5日 志賀島(しかのしま) 能古島(のこのしま)に至った蒙古軍と海上や沿岸で戦ったという。正安元年(1299)4月10日、幕府は 鎮西引付衆 を創設しているが、 鎮西 探題(たんだい) 北条 実政(さねまさ) 代に貞親は三番 頭人(とうにん)左近蔵人として名をみせている。貞親発給文書としては嘉元2年12月19日付け大友貞親 施行(しぎょう)状がある。内容は 笠和(かさわ)郷 井料田1町を 仙證房(せんしょうぼう) に 安堵(あんど)するというものである。翌3年の史料は『史料綜覧』に採録されているもので、筑前国怡土荘友永方地頭大友左近大夫将監貞親の代官 寂念(じゃくねん) が、同荘 名主(みょうしゅ)等の年貢の抑留 公事(くうじ)への抵抗を訴え出たことに対する鎮西探題 北条 政顕(まさあき) 下知状である。延慶3年(1310)6月5日、貞親は千熊丸( 出羽 季貞(すえさだ) )を養子として 直入郷 内 入田(にゅうた) 半分 大隈村 等を譲与している。この発給文書を最後とし史料上から姿を消す。なお、季貞を貞親の弟とするのは「 志賀系図 」である。
〈臨済禅招へいの文化人〉
『 大友家文書録 』は、徳治元年(1306)の条として、 府内 に 蒋山万寿禅寺(まこもさんまんじゅぜんじ) を建て、僧 直翁(じきおう) を招いて開基としたと説明している。 万寿寺 建立の経緯について「 豊筑乱記(ほうちくらんき) 」は、嘉元3年の鎌倉出仕の時、執権 北条 貞時(さだとき) から出家供養の有無を問われた貞親は、供養の事実がないにもかかわらず、筑前博多の承天寺に直翁を申し請け百余人の僧を供養していると答えた。貞時は大いに感心し、直翁は名僧で京都東福寺聖一国師の弟子であると言った。恥かしく思った貞親は徳治元年帰国し、吉弘美濃守を承天寺に派遣して直翁を府内に招請した。直翁も応諾し万寿寺に入院した。貞親は、貞時に答えた百余人の出家を養うべく、一千余貫の寺領を寄進したという。この万寿寺は 百合若大臣(ゆりわかだいじん) の姫万寿の 菩提(ぼだい)のため建てられたものであるとしている。また、『 豊鐘善鳴録(ほうしょうぜんめいろく) 』には、貞時が貞親に、 伽藍(がらん)を建て僧を招請し治世の助けとするようにといったので、貞親は承知し一大禅寺を建立したと簡単に述べている。なお、直翁 智侃(ちかん)は足利 泰氏(やすうじ)の子で、 蘭渓道隆(らんけいどうりゅう) に師事し、のち 入宋(にっそう)、帰国後は博多の承天寺に住していた。元亨2年(1322)4月15日寂。これより先の嘉元3年、貞親は比叡山より 道勇(どうゆう)和尚 を招請して 岩屋寺 に迎えたという。徳治2年に大友貞宗が岩屋寺を上野台地に移し寺名も総社山 円寿寺(えんじゅじ) と改めたという。あるいは貞親によるものかもしれない。
[橋本 操六]
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