大友貞載 ( おおともさだのり(さだとし))

どうして尊氏方に寝返ったか

 ?−1336 南北朝期の武将。大友6代 貞宗(さだむね) の次男。母は不詳。童名阿多々丸。通称三郎又は近江三郎。 左近将監(さこんのしょうげん)。筑前国 糟屋(かすや)郡立花に住し、 立花 を氏とし、 西大友 と称したというが史料上での確認はとれない。
〈 所領(しょりょう)配分から除外される〉
  鎮西探題(ちんぜいたんだい) 攻略の密約のもと博多に出陣する貞宗は、次郎 貞順(さだより) 三郎貞載を軍勢に加えた。戦死を覚悟した貞宗は、正慶2年(元弘3、1333)3月13日、自分が帯している所領 所職(しょしき)の全てを五男千代松丸に譲った。大友氏の 嫡子単独相続 の開始であるが、譲与の条件をみると、庶子等は家督千代松丸の計いによって 扶持(ふち)せよ。次郎貞順 三郎貞載は戦場に連れていくので当面扶持は考慮しなくてもよい。もし生還すれば、千代松丸の計いによって扶持せよとある。つまり、戦地に赴いた兄たちは何の財産も約束されない 無足(むそく)の身となったのである。ところが、生還した貞載の建武政権下での史料から、貞載を豊後 肥前両国 守護 とする説も唱えられている。
〈豊後 肥前両国守護か千代松丸の名代か〉
 各種 大友系図 が貞載を家督、つまり守護として取り扱っていないように、貞載の豊後 肥前国守護 職(しき)説には学界でも異論が多い。貞載が豊後国守護職であったとの説に従えば、正慶2年の貞宗譲状は一旦は白紙に戻されたことになる。 悔返(くいかえ)しがなされたことは、貞宗が帯した事実がない肥後国守護職を建武2年(1335)9月段階で千代松丸が帯していること、加えて貞載関係の文書内容が豊後 肥前両国守護の権限にかかわるものであることからも納得できる。貞載の守護説否認の根拠は、建武3年正月12日付けで 足利 直義(ただよし) が、千代松丸に一族ならびに豊後 肥前の軍勢を催促していること、同4年(延元2)3月の 志賀 頼房(よりふさ) 軍忠(ぐんちゅう)状に「惣領御名代近江左近将監」と表現されていること、更には公 武の上部権力から貞載にあてた文書が 遺(のこ)っていないことなど、貞載は千代松丸の名代であると提唱する。名代指定は千代松丸が幼少であったためとするが、建武2年9月には千代松丸あて 雑訴決断所牒(ざっそけつだんしょちょう)が発給されていることから、なぜ豊後 肥前両国支配に限って名代貞載が前面に出てくるのかの説明がつきにくい。また、千代松丸にあてた同年12月13日付け 足利 尊氏(たかうじ) 軍勢催促にも「相催一族」とだけあって、両国の軍勢を催促していないのかも十分検討されねばならない問題である。
〈官軍から尊氏軍への転身〉
 鎌倉政権を打倒して成立した 建武政権 は、恩賞の配分等が原因して、再び公武の対立が顕著になってくる。この 間隙(かんげき)を衝いたのが 諏訪頼重(すわよりしげ) らに擁立された14代執権 北条 高時(たかとき) の子 時行(ときゆき) である。 中先代(なかせんだい)の乱 と呼ばれるこの乱を契機として尊氏 直義兄弟は公然と建武政権に対立するようになる。南北対立のスタートである。諏訪頼重追討のため催促され京に集結していた大友勢は、急拠尊氏追討軍に編成された。貞載は 中務卿(なかつかさきょう)親王 を将とする一隊の副将の一人として竹下に向かい、千代松丸は新田義貞軍として箱根路に向かった。合戦は、緒戦の 矢矧(やはぎ)(愛知県) 鷺坂 手越河原(静岡県)では直義軍を敗走させたが、12月11日の伊豆竹下(静岡県)、箱根(神奈川県)合戦では逆に破れてしまった。『 梅松論(ばいしょうろん) 』によると、翌12日佐野山に陣を敷いていた貞載から、「味方したい」と連絡があったので、「子細あるまい」と了承した。矢合せの時分に尊氏軍に加わった、とある。また、『 太平記(たいへいき) 』によると、貞載と 佐々木 塩谷判官(えんやほうがん) の千余騎は、「如何思ひけん」一矢射て後、旗を巻て将軍方に馳せ加わり、官軍を散々に射ったという。この寝返りの理由はどこにあるのであろうか。「 常楽寺蔵大友系図 」は、初代 大友 能直(よしなお) 以来源家に深恩あるを思い、尊氏とも好を通じていたので、すでに北条氏を滅ぼしたことによって勅命にむくいたものと考え、今度は尊氏に加担して祖先の素意を現わしたいとする意図をもっていたためという。しかし、この説明は、利害得失による離合集散が日常茶飯事であった当時の説明にしては、極めて報恩的美談にすぎる。その実は、四国の細川氏、 備前(びぜん)国佐々木 田井氏、 備中(びっちゅう)国小坂 河村氏ら、 丹波(たんば)国久下 波々伯部(ははかべ) 中沢氏ら諸国の兵が尊氏方になびいたように、建武新政権下での氏族の繁栄に希望が持てなかったためと考えられる。
〈非業の最後を遂げた貞載〉
 尊氏方に転身した貞載は、建武3年正月11日京都に入り、東寺に陣を構えた。官軍敗北の原因は貞載の裏切りであると考えた 結城太田判官親光(ゆうきおおたほうがんちかみつ) ( 下総(しもうさ)結城の武将)は、貞載を討つべく偽りの降参を申し出た。貞載は尊氏の本陣 洞院殿公賢(とういんどのきみかた)の御所に連行しようとした。途中、親光は貞載に打ちかかったが組み討ちとなり、親光は討ちとられ貞載も重傷を負い翌12日死亡したという。この経過は『梅松論』によるものであるが、『太平記』の内容とは若干異なる。『太平記』は貞載を「元来少し思慮分別のたりない者」と評している。
 参考文献 山口隼正『南北朝期九州守護の研究』 渡辺澄夫『大分県の歴史』
[橋本 操六]

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