大友貞宗 ( おおともさだむね)

鎮西探題討伐に踏み切る

 ?−1333 鎌倉時代後期の武将。大友氏6代家督。父は3代 頼泰(よりやす) とする系図と4代 親時(ちかとき) とする系図がある。兄5代 貞親(さだちか) から家督を譲られた。貞親も兄親時から家督を譲与されたことは年齢から明白であるので、頼泰の子とするのが妥当である。母は兄貞親と同じ 戸次時親(べっきときちか) 娘。最も古く、かつ信用のおける 野津本「北条系図 大友系図」 には親時の第3子、貞親の弟とある。写本の時期が貞親の家督の時代である嘉元2年(1304)であることからも納得できよう。童名孫太郎。左衛門尉 左近将監(さこんのしょうげん) 近江守。従五位下とも従五位上とも従四位上ともある。 鎮西探題(ちんぜいたんだい) 空位の時、代行を命じられる。元弘3年(1333)12月3日没。法名は顕孝寺殿 直庵具簡(じきあんぐかん)。
〈家督相続の時期〉
 貞親から貞宗への家督譲与の年代を示すのは「 常楽寺蔵大友系図 」だけで、応長元年(1311)のこととする。ところが、「 豊府聞書(ほうふきぶん) 」は、貞親は徳治元年(1306)に将軍の命を受けて家督を長男貞宗に譲ったとするが、徳治3年4月5日付けで鎮西探題 北条 政顕(まさあき) 退座の節は、その職務を代行せよとの関東 御教書(みぎょうしょ)が大友出羽守貞親に発給されていることからすれば、徳治元年の家督譲与説は否定される。また、正和元年(1312)発布された 神領興行(しんりょうこうぎょう)法 にかかわる史料に、貞宗が鎮西探題の命を受けて実情調査をしている事実から、家督譲与は応長元年とみて間違いあるまい。
〈鎮西探題の後見〉
 5代貞親が鎮西探題退座の時、代行を命じられたように、正和5年5月貞宗も鎮西探題未補(空席)の時は、九州の警固に 大宰少弐(だざいのしょうに) 貞経(さだつね) とともに当たるよう命じられた。これは探題北条政顕が正和5年辞任し、翌文保元年に 北条随時 が就任するまでの間の措置であった。翌文保2年7月には北条随時退座につき代行を命じられ、11月17日には随時退座の 沙汰(さた)にかかわる使者の鎮西鎌倉間の往復に際し、身の安全を路次の地頭御家人に徹底するよう命じられている。元亨元年(1321)6月、随時が没した。9月12日幕府は貞宗に少弐貞経と共に鎮西警固以下に当たるよう命じた。次の探題に選ばれたのは 北条 英時(ひでとき) で、就任は12月である。同4年(正中元)5月にも英時退座による代行が命じられている。なお、元亨2年ころ貞宗は従四位下に叙せられ、近江守に任ぜられた。
〈鎮西探題討伐に踏み切る〉
  得宗(とくそう)専制政治 により、豊後 筑後 肥後3か国(後三か国という) 守護 職(しき) に任じられた大友氏、豊前 筑前 肥前3か国(前三か国)守護職に任じられた少弐氏、薩摩 大隅 日向3か国(奥三か国)守護職に任じられた島津氏らは、それぞれ、豊後 筑前 薩摩各一国の守護に零落してしまった。この専制政治に立ち向かったのは 後醍醐(ごだいご)天皇 のみならず、各地の武士も同様であった。九州での主導的立場にあったのは 菊池氏 である。菊池氏の反北条精神は、 蒙古(もうこ)合戦 での恩賞配分が極めて少なかったことに起因しているという。菊池氏の主唱により、鎮西探題攻略の密約がなされた。翌元弘3年(1333)、三者の密約を察知した探題北条英時は、実否糾明のため三将を招集した。 菊池 武時(たけとき) は遅参を理由に着到帳への記入を拒否されたことにより、3月13日兵をあげ、大友 少弐の決起を迫った。しかし、大友 少弐は動かず探題方についたため、武時は敗れてしまった。貞宗はこの陣中で後醍醐天皇の密使を捕え首を 刎(は)ねているが、密使は、大友 少弐 菊池 平戸 日田 三窪氏あて後醍醐天皇の軍勢催促の 綸旨(りんじ)を所持していたという。貞宗の取った態度は 首鼠両端(しゅそりょうたん)と批判される。ところが、 足利 高氏(たかうじ) が後醍醐方につくと、貞宗は自ら進んで味方することを申し出て、5月25日には 少弐 貞経(さだつね) 島津 貞久(さだひさ) らと共に探題館を攻め英時を自刃させている。これにより、高氏から鎮西の降人 捕虜などの処分を一任され、恩賞として肥前国守護職を与えられた。上洛後の元弘3年12月30日病のため京都南禅寺聴松院で没した。貞宗の取った態度は、単なる利害得失のためではなく、天皇親政下での武士の立場と、武家政権下での武士の立場を考えてのもので、いかにすれば一族の繁栄がもたらされるかという、 惣領の責任を全うしたものといえる。
〈貞宗と仏教〉
 貞宗も兄貞親同様 禅宗 に深く帰依していた。嘉暦元年(1326)中国の僧 正澄清拙(しょうちょうせいせつ) と接して後、筑前国顕孝寺 豊後国 長興寺(ちょうこうじ) の創建、 府中 金剛宝戒寺(こんごうほうかいじ) 岩屋寺 (総社山 円寿寺(えんじゅじ) )の再興を果たしている。このころ、貞宗は 剃髪(ていはつ)して 具簡 と名乗り、 直庵 と号している。元徳元年(1329)には中国より 竺僊(じくせん)(字は 梵僊(ぼんせん))が来朝して貞宗のもとにあり、翌2年には 楚俊明極(そしゅんみんき) が来朝し貞宗の 外護(げご)を受けている。楚俊は日田 岳林寺(がくりんじ) 開山としてなじみ深い人物である。
 参考文献 山口隼正『南北朝期九州守護の研究』 渡辺澄夫『大分県の歴史』
[橋本 操六]

[お]メニューに戻る