大友氏条々 ( おおともしじょうじょう)

戦国大名の未熟さを示す

〈戦国家法に類似〉
 南北朝対立という争乱の社会を乗り切った 守護大名 のほとんどは、 応仁(おうにん)の乱 後、領国の支配権を守護代や有力 国人層(こくじんそう) に奪われ没落していった。これら新しい勢力が 戦国大名 として割拠するようになるには、国人や土豪たちを 給人(きゅうにん)として自己の家臣団に組み入れ、農民を直接支配する必要があった。このような専制支配を隅々まで及ぼすためには、それを明文化した法律が当然必要になってくる。これが 分国(ぶんこく)法あるいは 家法(かほう)と呼ばれるもので、大友氏の条々はこれに当たる。このほか、城下町の建設 土地戸口の調査、商工業の保護統制などの整備も必要である。分国法としては大内氏 壁書(かべがき)が最も早いが、今川氏の今川仮名目録 武田氏の甲州 法度(はっと) 長宗我部(ちょうそかべ)氏の長宗我部 元親(もとちか)百箇条などが有名である。
〈大友家最初の 義長(よしなが)条々〉
 永正12年(1515)12月23日、大友19代 義長 は17条にわたる事書と追加8条の事書を発した。第1条は幕府への忠節、第2 3条は敬神、第4条から8条までは、祖父母 母 弟 妹 親戚への配慮の指示。第9条以降が対家臣団の項目で、9条が年寄衆の出仕日と勤務時間、10条は 聞次(ききつぎ)役の服務規定、11条は傍輩の交際規定、12条は 寄力(よりき)の規制、13条は奉公 忠節の度合の記憶、14条は若者の楽言の規制、15条は内訴の禁止、16条は所帯没収の規程、17条は博愛精神による人の使用、となっている。追加8条は、家臣への進物の要求、諸郷庄への目付 耳聞(みみきき)の配置、筑後への 在国(ざいこく)、亡命者への対応、朔日(1日) 15日の対面、諸芸への対応、狩鷹野の禁止、召仕者への教訓となっている。以上のように、戦国大名が領国支配のため作成した家法とは程遠い家訓的内容となっている。
〈 大友 義鑑(よしあき) の発した条々〉
 享禄3年(1530)12月6日付けで、39条にわたる条々が発せられた。発布者の氏名は明記されていないが、内容が大友義長条々に普遍性をもたせたものに、新たな条項を加えたものであること、嫡子 義鎮(よししげ)出生以前であることから、義鑑の発布に間違いない。義長条々25条は22条に整理統合され、順序にも入れかえがみられ、家訓的なものから領国を対象とした普遍性がみられるようになっている。新たに加えられた条項17条の中には、「於当家無先例役者、不可定事(25条)」「諸 沙汰(さた) 雑務等、雖老中、一人之披露不可然…(26条)」「止所々城誘、家居結構、不可然事(36条)」など、戦国家法として十分通用する条項が含まれている。天文19年(1550)2月10日、大友家最後の内紛で俗にいう 二階崩れの変 が発生した。重傷を負った義鑑は12日、11条にわたる条々を 遺(のこ)して没した。内容は大友家の政道の指針を大局的に示したもので、戦国家法というより後継者義鎮への助言的内容となっている。
〈 大友 府蘭(ふらん)( 宗麟(そうりん)) 条数覚〉
 天正12年(1584)卯月3日、府蘭は15条の覚を嫡子 義統(よしむね)のために書き置いた。まず第1条では、先の憲法つまり、義長条々 義鑑条々を基本に据えて十分なる情況判断のもとに下知を加えるよう指示している。以下、 公事沙汰(くうじさた)、 近習(きんしゅう)等の自然公事、国中諸侍の重縁、政道閉目における近習 諸侍の召篭 留置、 石火矢(いしびや)(大砲) 手火矢(てびや)(鉄砲) 玉薬の確保、兵粮の備蓄、質素倹約等についての心得を示している。この覚は、家督を義統に譲った後おおよそ10年程経ってからのものであり、内容的にも嫡子義統への訓戒的なものになっている。
〈 大友 吉統(よしむね) 条々事書〉
 天正20年2月21日、吉統は嫡子 義述(よしのぶ) に21条の条々を示した。当時の吉統は豊後一国を支配する大名で、父宗麟なき後、頼るべき人物は 太閤秀吉 という状態であった。したがって、朝廷 秀吉 賀来(かく)社 万寿寺(まんじゅじ) への配慮が冒頭に述べられている。また、家臣団の集住の指示がようやく見えるなど、戦国大名としての対応の遅れが顕著である。特に19条には、吉統自身が自分の酒好きを深く後悔し、義述には下戸に徹するよう指示している点は、法令以前のものであるといわざるを得ない。
〈戦国大名の未熟さを示す〉
 守護大名が戦国大名として残った極めて少ない例の中に大友氏がある。それだけに、戦乱の世相の把握や対応が遅れたことは否定できない。また、独立した九州にあって最大の守護大名であったことや、対外戦争で大きなダメージを受けることもなく、しかも宗麟代には九州六か国守護に成長するなどの状況下では、力による支配で事足りていた。したがって、家訓的な義長条々 天文19年の義鑑条々以上の法を必要とせず、これに天正12年の府蘭覚が加わったものが、大友家基本法として義統に伝えられていくのである。享禄3年の義鑑条々は基本法には加えられていない点未熟さをよく示す。
 参考文献 外山幹夫『大名領国形成過程の研究』
[橋本 操六]

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