大友親繁 ( おおともちかしげ)
直系相続の確立
1411−1493 室町時代中期の武将。大友氏15代家督。父は11代 親著(ちかつぐ) 。母は千葉氏。童名五郎。 親重(ちかしげ) 親職(ちかもと) を名乗る。左馬允 豊後守 従四位下。明応2年(1493)没。法名心源寺殿心源清公庵主。
〈初名親重から親職と改名〉
大友氏9代 氏継(うじつぐ) と10代 親世(ちかよ) は8代 氏時(うじとき) を父とする兄弟であるが、氏継は 北朝 一辺倒に対する疑念を表面化させた 国人(こくじん)衆 と妥協するため 南朝 方に走り、跡は親世が継いだ。親世は兄氏継から家督を譲られた恩に報いるため、家督を氏継の嫡子親著に譲り、親著もまた親世への報恩のため親世の嫡男 持直(もちなお) に家督を譲ったと『 大友家文書録 』はいう。親世は嫡子持直の家督としての長期化を計るため、親著の末子親重を次期家督に指定したらしい。しかし、持直が博多港をめぐって 大内 盛見(もりはる) と対立して自刃させたことから、将軍 足利 義教(よしのり) の追討を受ける身となり、豊後 守護 職(しき)も親著の二男 親綱(ちかつな) に一方的に発令され、さらに持直の弟 親隆(ちかたか) へと譲られた。親重は親隆の娘との結婚を条件にようやく15代家督となる。このように、室町期の大友家督は氏継系と親世系が交互に継いでいるのである。さて、親重名の初見は持直が追討を受けている最中の永享8年(1436)のことで、「 看聞御記(かんもんごき) 」に五郎とある。同年8月3日付け水田氏あて 知行宛行(ちぎょうあておこない)状には親重と明記されている。また、「 海東諸国記 」には永享9年に親重が豊筑両後州大守として 朝鮮貿易 に携わっているとみえる。下限については、永享12年2月時点「道瑛(親著) 持直 親重其外残党」とある。これは幕府側史料で本人は同12年4月には親職という名で知行宛行状を発給している。
〈親職から親繁への改名〉
親繁名の初見史料は、文安元年(1444)7月19日付け室町幕府 管領(かんれい)署判下知状である。ところが、10年後の享徳3年(1454)時点での史料には親職とみえ、その翌年の康正元年銘の 鰐口(わにぐち) ( 文珠仙寺(もんじゅせんじ) )にも「守護大友豊後守親職」とみえる。以上からすれば、親繁と親職の名を使い分けたことになり不審である。となれば、室町幕府発給の下知状と、諸家に伝わる史料のどちらかが偽文書という可能性がでてくる。その可能性は点在する諸家相伝のものには全くなく、幕府発給のものといわざるを得ないことになる。改名の時期は恐らく長禄元年(1457)ごろであろう。
〈親繁と守護職〉
12代持直は、応永30年(1423)7月5日豊後 筑後両国守護職に任命された。しかし、博多港をめぐる対立で、永享3年(1431)大内盛見を自刃させたことで、幕府の追討を受けることになる。将軍義教は翌4年冬豊後国守護職を親著の次男親綱に 安堵(あんど)し、筑後国守護職は同年10月26日 菊池氏 に安堵した。しかし、親繁は永享9年時点でも豊筑両後州大守として朝鮮貿易を行っている。恐らく貿易を有利に展開しょうとしたものであろうが、あるいは国人衆の一部にはそれを妥当としたものもいたと思われる。親綱から親隆への移譲は永享11年ころで、対象になったのは豊後国守護だけである。親繁への豊後国守護職安堵を文安元年7月19日とする史料は、親職名使用中であり疑わしい。さらに、寛正3年には親繁の子 政親(まさちか) に豊後と筑後半国守護を安堵したとあり、その3年後の寛正6年に筑後国守護職を親繁に安堵したとある。極めて矛盾の多い内容で十分な検討を要する問題である。
〈直系相続の確立〉
大友氏の 嫡子単独相続 は正慶2年(1333)の千代松丸あて 貞宗(さだむね) の譲与に始まる。しかし、南北朝の対立は、一方では 所領(しょりょう)の再配分をめぐっての惣庶の争いでもあり、単独相続の確立には至らなかった。また、室町期には将軍義教の介入があり、相続の慣習すら否定されてしまった。さて、史料によると寛正3年親繁は幕府に 上申し 、嫡男五郎政親を家督とし、豊後および筑後半国守護職ならびに現在知行している所領 所職(しょしき)を譲ることを許されているが、政親が守護として発給している文書や、幕府から守護政親にあてた文書は文明8年(1476)4月以前にはみえない。また、寛正6年に親繁に筑後国守護職を安堵しているので、政親に安堵されていた筑後半国守護職はどうなったかという疑問が残る。ところが、文明9年6月19日付けで、豊後 筑後両国守護職と筑前 肥前両国内の地が、親繁の 譲与の旨 によって政親に安堵されたのである。これは、大友家内で発生した譲与という行為を幕府が追認するという従来の方式に戻ったことを示すもので、義教による一方的発令行為とその踏襲の 終焉(しゅうえん)と考えられる。つまり、応仁の乱をほとんど無 疵(きず)で通り越し、内政充実に力を注いで貯えた実力に対してとった幕府の措置である。また国人衆の完全なる掌握が直系相続を確立させたと考えられる。
参考文献 橋本操六「大友親繁改名と家督相続」(『九州中世社会の研究』)
[橋本 操六]
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