大友親治 ( おおともちかはる)
内紛を収拾して隠居
?−1524 戦国時代の武将。大友家18代家督。父は15代 親繁(ちかしげ) 。母は竹中氏娘。童名小僧丸。通称次郎。 修理大夫(すりだいぶ) 備前守。従五位下とも従四位下ともある。「 常楽寺蔵大友系図 」によると、親繁の四男で幼少より僧籍に入れられ、肥後国瑞光寺で起居していたが、 還俗(げんぞく)して帰国したという。ほかに三男とも五男ともある。没年についても「 公方(くぼう)様当家条々要目」のように大永4年(1524)正月19日とするものほか、大永2年説(『 寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ) 』、「常楽寺蔵大友系図」) 永正4年(1507)説もある。法名は見友院梅屋見友。
〈家督襲封の経緯〉
幼少の時から僧籍に入れられていたように、大友家家督となる可能性は全くなかった。親繁によって確立された直系嫡子相続制によって、嫡子 政親(まさちか) が16代家督となりその子 親豊(ちかとよ) (後 義右(よしすけ) )が17代を継ぐというように、相続制も軌道に乗っていた。ところが、政親 親豊父子の対立という思いがけない事態が発生し、家督をめぐる紛争が再び表面化してくる。最初に紛争を起こしたのが政親の弟(二男) 日田 親胤(ちかたね) である。母は千葉氏の娘で、兄政親の母(14代 親隆(ちかたか) 娘)、弟親治の母とも異なる。親胤は政親在洛中に親豊と対立して肥後で挙兵した。親治は肥後に赴き中止を訴えたが聞き入れられず、親治さえ討とうとしたため合戦となり、親治の勝利で一応収拾された。次の内紛は政親 親豊父子の救いのない対立である。その背後には、家督をねらう13代親綱の子 大聖院宗心(だいしょういんそうしん) と、宗心を援助する 大内氏 、大内氏に連なる 田原氏 等がいた。父子の対立は、明応5年(1496)の義右の病死、政親の大内氏による幽閉 切腹という最悪の事態で終わった。この混乱を疾風のように収拾したのが親治である。大友氏の存亡にかかわる最大の内紛を収拾し、 嫡子単独相続 制を不動のものにしたのである。
〈家督を直ちに譲与〉
義右が帯していた 所領所職(しょりょうしょしき)の全てを継いだ親治は、明応7年2月には嫡男 親匡(ちかただ) に全てを譲与しようとした。『 大友家文書録 』は、家督に就いた者は、将軍に 偏諱(へんき)を請うのが通例であるが、親治は改名をしていない。また、嫡子親匡を義右の後継者とし、自身はその補佐であるとするのは、親治が義右の伯父であること、年齢も長じていることが原因しているためではないかと説明している。親治は 勝光寺光讃(しょうこうじこうさん) を使者に起用し、将軍 足利 義澄(よしずみ) と越中にあった 義材(よしき) に親匡への家督譲与の了解を求めようとした。義材派の 大内 義興(よしおき) は、親匡の家督襲封に異義を唱え、大聖院宗心の擁立を公然と表明し、策動を開始する。明応8年の義澄 義材の対立に当たって、親治 親匡父子は義澄方に加担して大内義興の 分国(ぶんこく)豊前に出陣し、宇佐郡 下毛郡 築上郡を手中に収めた。文亀元年(1501)閏6月23日、豊後 筑後 豊前 守護 職(しき) 以下が親匡に 安堵(あんど)され、翌日には義澄より 偏諱(へんき)を賜わり義長と名乗る。以上から親治が義右から受け継いだ守護職等は幕府から追認されたことになる。
〈親治の領国支配機構〉
親治は明応5年の政親 義右の対立による混乱を収拾し、12月には給地の没収 宛行(あておこない)をほぼ終わっている。また、国政執行の中枢には政親代の老臣と、新規登用の老臣とで固め、地方には 政所(まんどころ) や郡代あるいは 方分(ほうぶん) を配置して施政の徹底を計っている。特に、 下地(したじ)打渡機構として政所を直轄領に置き、それ以外には 闕所(けっしょ)奉行や検使を随時指定している。また、豊後国内にあっては郡単位に、他の分国にあっては国単位に方分を置いて、施政の徹底をはかっている。なお、方分は老臣から選出されることになっている。次に軍事体制の面では、 山香本(やまがほん)(東西) 一揆(いっき) 以外の百姓等が一揆を結ぶことを禁止している。本一揆が認められた理由は、 名主(みょうしゅ)層によって構成されていること、有力武士のもとに結集する 寄子(よりこ)的性格を有していること、つまり大友氏の軍事組織の一端を担う一揆であったことであろう。特徴的なものとして 寄親(よりおや) 寄子制の推進がみられる。これは、合戦に際して弱小武士あるいは 無足(むそく)の者を有力武士のもとに結集させるもので、以前には見られないものであった。
〈江戸期には大悪人評価〉
「 雉城雑誌(ちじょうざっし) 」によると、親治の性質は邪悪で、政親 義右父子の不和も親治のためである。混乱を収拾して家督となったが、 国人(こくじん) たちは服従せず、早々に家督を義長に譲って閑居したが、残忍の心がやまない、とある。この評価は、国東半島の 雄渡牟礼(おどむれ) 城に 篭(こも)った 田原 親治(ちか、はる) の伝説とを混同してのものであろうが、『豊後大友物語』は混同されることは親治も悪人であったためではないかと推論しているし、天寿を全うしたにもかかわらず、その墓が江戸時代すでに所在不明となっているのも、悪人なるが故ではないかとも推理している。
参考文献 狭間久『豊後大友物語』
[橋本 操六]
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