大友親世 ( おおともちかよ)
大友中興の祖
?−1418 南北朝期−室町初期の武将。大友家10代家督。父は8代 氏時(うじとき) 。母は不詳。童名千代松丸。『 大友家文書録 』では通称孫三郎。左馬助 丹後守 式部丞 式部大輔 修理大夫(すりだいぶ) 修理 権大夫(ごんのだいぶ)を称したとするが、確認できるのは左馬助 式部丞 修理権大夫だけである。従四位下とも従五位下ともあるが、確認できるのは従五位下。 九州 探題(たんだい) 空席の間その代行を命じられた。 剃髪(ていはつ)して 祖高(そこう) を名乗る。応永25年(1418)2月25日没。法名瑞光寺殿 勝幢(しょうどう)祖高。
〈家督襲封の経緯〉
現存する史料中での親世の初見は応安4年(建徳2、1371)11月21日付けのもので、内容は親世が九州探題 今川了俊(いまがわりょうしゅん) の下向を 都甲(とごう)氏 に告げると共に忠節を尽くすよう伝達したものである。つまり、豊後守護としての役割を示す内容であるが、 守護 職(しき) 安堵(あんど)の史料はない。前代豊後守護は、貞治3年(正平19、1364)に守護職を安堵された兄 氏継(うじつぐ) で、貞治6年まで守護としての権限を確認できる。ところが、4年後の建徳3年(応安5)には、氏継は家の安全を 柞原宮(ゆすはらぐう) に祈願すると共に、日ならずして帰国したならば田地を寄進し、社壇を新たにし、神事祭礼を昔日どおり勤行する旨を祈願し、 南朝 方に走っている。氏継が南朝方につくことを決心したのは、九州探題今川了俊の確定と時をほぼ同じくしている。これは、南朝優勢の中にあって、 北朝 一辺倒の大友宗家に対する 国人(こくじん)衆 の抵抗との妥協と考えてよかろう。
〈兄弟愛を強調する『大友家文書録』〉
応永8年(1401)ころ親世は家督を兄氏継の子 親著(ちかつぐ) に譲った。このことについて『 大友家文書録 』親世譜は、「親著は氏継の正嫡なり、 按(あん)ずるに、氏継、親世を立つ。故に以て、親世多子を措き、親著を挙ぐるものか」と、氏継から家督を譲られたことに対する恩に報いたとしている。また、親著が親世の子 持直(もちなお) に家督を譲ったことに対しても、親世への報恩という美談で 綴(つづ)っている。また、氏継から親世への家督譲与を、大友家存続のための密約によるものとする説もあるが、あまりにも江戸時代的な感覚といわねばならない。北軍の危機に対処しながら、何一つ有効な対策を推進し得なかった氏継に対し、大友一族 重臣 国人衆から責任を問われて私合戦にまで発展しようとした事態に処するため、やむなく嫡子親著を家督に立てることを条件に、弟親世に家督を譲ることを承認した(これには氏継の病弱も原因しているらしい)。加えて南朝軍絶対優勢の中での国人衆の路線対立がおこり、一部国人衆に擁立されて南朝方に 奔(はし)ることになったと考えられている。したがって、報恩というような兄弟愛的美談では処理できない重要な問題であるといえよう。
〈九州探題に協力した親世〉
応安4年8月6日、親世の指揮する 高崎城 に 伊倉宮(いぐらのみや) を戴く 菊池 武政(たけまさ) が攻めかかった。高崎城には、すでに九州探題に命じられた今川了俊の嫡子 義範(よしのり) が入城していた。了俊は豊後に義範を入れて菊池勢の背後を突かせ、肥前には弟 頼泰(よりやす) (後 仲秋(なかあき) )を入れて 松浦党 と共に西から 大宰府 を攻略させ、自身は豊前から進入して一挙に結着をつける作戦を立てていた。高崎城攻略中の12月19日、了俊は門司赤坂に布陣して、いよいよ南朝勢と対決することになった。伊倉宮以下南朝軍は了俊に対応するため、応安5年正月2日までの百余度の合戦の翌日大宰府に引きあげた。以後、了俊の指揮により九州北朝軍が勢力を盛り返すことになるが、同8年の肥後水嶋の陣中での 少弐冬資(しょうにふゆすけ) の謀殺で、北朝軍最大の危機を迎えた。親世は了俊の慰留に応じ、南北両朝の合一まで行を共にしている。了俊は親世の慰留に当たり、 佐賀郷 大佐井(おおざい)郷 等を与えるが、永徳3年(弘和3、1383)時点での親世の知行地は86か所となっている。父氏時代より19か所の増大で、しかも豊後への集中という特色がある。応永2年(1395)了俊は 大内 義弘(よしひろ) 大友親世の 讒言(ざんげん)により召還された。次の探題 渋川(しぶかわ)氏 決定までの代行を命じられたという。
〈大友中興の祖〉
応永8年、親世は肥後高瀬での菊池氏との合戦の後、剃髪し、祖高と改名し、勝幢と号したという。親世は幼少のころより大志を抱いており、自分の股には漢の高祖と同じように72個の 黒子(ほくろ)があるので、成人したならば高祖に 因(ちな)んで高祖と名乗りたいといっていたという。家督を父氏時から譲られ、国人衆も服従した。剃髪に当たって高祖を逆にして祖高としたという。「 両豊記(りょうほうき) 」「 大友記(おおともき) 」「 豊筑乱記(ほうちくらんき) 」等の 野史(やし)も、ほぼ同内容の記述で親世をたたえている。しかし、史料からは親世を中興とするだけのものは見当たらない。したがって、中興という美名は、今川了俊と行を共にして好運にも南北朝合一の一端を担ったことに求められよう。大分市元町にある墓は明治11年(1878)に建立したもの。
参考文献 山口隼正『南北朝期九州守護の研究』
[橋本 操六]
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