大友政親 ( おおともまさちか)
子に追われ子を毒殺する
1444−1496 戦国時代の武将。大友16代家督。父は15代 親繁(ちかしげ) 。母は14代 親隆(ちかたか) 娘。童名房丸(名房丸 虎丸ともある)。通称五郎。左衛門大夫 豊前守。従四位下。明応5年(1496)6月10日長門国船木地蔵院で自刃。53歳。法名は海蔵寺殿珠山如意。
〈将軍家による家督 安堵(あんど)〉
寛正3年(1462)10月25日、 足利 義政(よしまさ) は豊後国 守護 職(しき) と筑後国半国守護職に政親を任じ、大友惣領家が現在 知行(ちぎょう)している 所領(しょりょう)については父親繁の申請によって政親に安堵した。しかし、守護としての政親が発給した文書、また、守護政親にあてた幕府からの文書は、以後15年間にわたって確認できない。つまり、19歳で守護に任じられながら34歳まで守護としての権限を行使したことがないことになる。しかも、政親に安堵された筑後半国守護職と 菊池 為邦(ためくに) に与えられていた残り半国守護職、つまり筑後国守護職は、寛正6年には親繁に安堵されている。『 大友家文書録 』は親繁と為邦に半国ずつ与えられていたが、為邦が難渋してしばしば合戦に及んだので、幕府は親繁に全てを安堵したと説明している。寛正3年の政親への安堵とどう関係するのかは不明である。
〈追認による家督安堵〉
文明8年(1476)、政親は家督を受け継いだ旨を将軍以下に報告すると共に、金品を関係者に贈った。『大友家文書録』は、寛正3年の安堵に対する修礼で、15年もの遅延は京が争乱の 巷(ちまた)となっていたためだと説明している。幕府関係者から政親あて礼状には、「父家督与奪祝儀として」の贈物に感謝する旨が明記されているので、家督就任に関するものであることは間違いない。さらに翌9年6月19日には、将軍義政から「父豊後守親繁の譲与の旨」に任せ豊後 筑後両国守護職以下を安堵されたのである。この一連の事実が寛正3年の家督就任に関するものとすれば、文明9年の安堵の根拠は何かということになるし、筑後半国と筑後国守護の関係も理解できないことになる。したがって、親繁から政親への家督譲与は文明8年になされ、翌年追認されたとみるのが、将軍義教の 親綱(ちかつな) への一方的安堵は例外として、幕府による家督の追認からみても間違いあるまい。となると寛正3年の家督譲与の根拠は何かという問題に突き当たる。『大分県史』は祖父親隆の意志によるものであろうと推測している。親隆の没年が寛正6年7月5日と、親繁の筑後国守護補任の25日前ということからみても説得力のある推論であるといえる。親隆の死を契機に寛正3年の家督就任は白紙にもどされたものであろうか。
〈嫡子 親豊(ちかとよ)との対立〉
文明16年、政親は家督を嫡子 親豊 に譲ったというが、幕府の安堵状はない。家督譲与に関してか、父子の間にトラブルがおこり、親豊は母の郷里 大内氏 を頼っている。同19年父子の和解が成立し、海路帰国する。政親上洛中の延徳元年(1489)、政親の異母弟 日田七郎 親胤(ちかたね) が親豊の家督を不満として肥後で挙兵する。この反乱は、やはり異母弟の 親治(ちかはる) によって収拾されるが、親豊は父政親の差金であるとして再び対立が始まる。しかし、この対立はあまり深刻なものではなかったらしい。ところが、将軍職をめぐる 足利 義材(よしき) 義澄(よしずみ) の対立に、親豊が進んで義材に臣従することを申し出た明応2年(1493)以後、父子の対立が急速に進んでいく。この対立の裏には、大友家督をねらう13代親綱の子 大聖院宗心(だいしょういんそうしん) がいる。政親は、宗心に操られる 義右(よしすけ) (親豊→ 義材() →義右と改名)の主体性のなさを心配し、対立の原因は、日田氏が政親方についていると雑説を流し、父子の対立を策謀している宗心にあると断定している。
〈子に追われ子を毒殺する〉
父子の対立は日を追って深刻になっていった。まず、義右以下大友家の中枢は佐伯境に出奔してしまった。政親はこれに対応して宗心一派の討伐を大野郡士 三代(みしろ)氏 等に依頼する。今度は、延徳元年の日田親胤の乱を口実に軍勢を府中に集めたため、政親は直入郡 朽網(くたみ) に難を避け、親胤謀反は政親の差金であるというのは雑説であると申し入れ、事態を収拾しようとする。両者は 起請文(きしょうもん)をかわすが義右によって 反故(はんこ)にされ、いよいよ対立は激化する。子を思う政親に同情してか、あるいは本宗家を奪おうとしたのか、筑後詰郡代として筑後にあった 田原 親宗(ちかむね) が明応3年 府中 を襲うが敗れ、国東への帰途 箕崎(みのざき)で 木付親久(きつきちかひさ) に攻められ戦死する。明応5年、臼杵に身をひそめていた政親は5月13日海路筑前に向けて出帆した。一方、4月以来病気となっていた義右は5月27日没してしまった。義右の死が直ちに大内方に報じられたのか、赤間関で政親は大内氏にとらえられ、6月10日長門舟木地蔵院で詰腹を切らされた。 近衛政家(このえまさいえ) は義右の死は父政親による毒殺と日記に記しているが、真実は不明。
[橋本 操六]
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