大友義鑑 ( おおともよしあき)
戦国大名を目指す
1502−1550 戦国時代後期の武将。大友20代家督。父は19代 義長(よしなが) 。母は 阿蘇 大宮司(だいぐうじ) 惟乗(これのり) 娘。童名塩法師丸。長じて次郎 親安(ちかやす) 、五郎 親敦(ちかあつ) 。将 足利 義晴(よしはる) より 偏諱(へんき)を賜わり 義鑒(よしあき) を名乗り、のち義鑑に改む。 修理大夫(すりだいぶ)。従四位上。天文19年(1550)家臣に 弑(しい)さる。法名は到明寺殿松山紹康。
〈13歳で家督受封か〉
病気勝ちな義長は永正12年(1515)12月、嫡子親安に対し大友家安泰のための家法ともいうべき 条々(じょうじょう) を示し、実質的な家督行為をゆだねた。もちろん、後見には祖父 親治(ちかはる) と義長が当たっていた。この 間隙(かんげき)をねらって大友家 加判衆(かばんしゅう) でもあった実力者 朽網親満(くたみちかみつ) が反乱を起こしたが、祖父親治の適切な家臣掌握で親満を敗退させ、家督親安の基盤を固めた。永正15年8月11日の義長の死に伴い名実ともに20代家督となるが、第一に手がけたのが、義長条々第6条に示されている弟菊法師丸の肥後入国問題である。永正17年2月、 菊池 武包(たけかね) の跡を継がせるが、後に大友宗家に脅威を与えようになる。親安から親敦への改名の時期は不明であるが、永正17年時点では親敦が確認できる。大永4年(1524)正月、後見の祖父が没し、いよいよ親敦の双肩に大友の命運がかかってくる。
〈義鑑と 守護 職(しき)〉
親安が父義長から受け継いだのは、豊後 筑後両国 守護職 であったらしく、義長が親治から譲与された豊前国守護職は大内氏のもとに還付されていたらしい。親敦は大永2年11月、一族 田原 親述(ちかのぶ) を筑後国 守護代 に任命して筑後国支配を行っている。同4年3月、将軍義晴の偏諱と官途を請い、義鑒と改め、修理大夫に任じられた。ところが、天文2年(1533)12月、豊前国守護職が義鑑の嫡子新太郎( 義鎮(よししげ) )に安堵されている。義鎮は享禄3年(1530)生まれであるから、数え年4歳の幼児を守護に任命したことになり納得できない。恐らく、大内氏を 牽制(けんせい)するためにとった幕府の一つの手段であろう。大友 大内の対立は、天文7年の和議によって小康を得た。同9年、宮廷修理経費200貫文、 足利 義教(よしのり) 百年忌仏事経費50貫文の献納を命じられ、さらに勅命により東大寺大仏殿修理経費として黄金30両を寄進している。こうした経済的貢献度と軍事力に対してか、同12年5月、延文4年(正平14、1359)将軍 義詮(よしあきら) が 氏時(うじとき) を肥後国守護職に 補任(ぶにん)した先例に従い、義晴から肥後国守護職に補任された。
〈戦国大名を目指した領国経営〉
強力な戦国大名を志向する義鑑は、まず本国豊後国内の掌握の必要があった。つまり、一族、 同紋衆 、 他姓衆 のいかんを問わず、反抗の危険がある諸氏の徹底排除を行う必要があった。最初に犠牲になったのが、一族 大神親照(おおがちかてる) である。大神氏は 戸次(べっき)氏 の分流で、速見郡 日出 藤原 両荘を本拠地とし、加判衆や 方分(ほうぶん) にも任じられていた実力者であった。誅伐は大永2年冬で、 府内 来迎寺(らいこうじ) で討たれたという。現存する史料を総合すると、誅伐を演出したのは田原親述らしい。その理由は定かではないが本来田原氏の 所領(しょりょう)であった日出 藤原両荘が関係していると考えられる。第二番目は 佐伯惟治(さいきこれはる) である。大永6年12月、惟治は義鑑の弟 菊池 義国(よしくに) 、筑後の 星野 親忠(ただちか) と通じて、同時に府内を攻略しようとしたが露見し、 臼杵 長景(ながかげ) らにより攻められ、下城の後討たれた。この2件の討伐は共に永正13年の朽網親満の反乱に関係していることは間違いない。最後が 野史(やし)にいう同紋衆と他姓衆の対立である 氏姓遺恨事件 である。この対立で労せずして得をしたのはやはり義鑑であった。有力家臣団を粛清することによって国内統一を図ろうとした義鑑であるが、最後は義鎮を廃嫡にし、側室の子塩市丸を家督に据えようとしたことから、 津久見 田口 両氏によって天文19年2月12日襲われ没したという(一説には翌13日没)。これが大友家最後の内紛で、俗に 二階崩れの変 と呼ばれている。
〈義鑑の対大内対策〉
義鑑 麾下(きか)の部将 秋月種時(あきづきたねとき) が、 大内 義興(よしおき) の部将 陶(すえ)美作守 と通じ、筑前 筑後の地を 掠(かす)めた。義鑑は大永5年3月種時を撃って降伏させた。義鑑としては当然義興と対立したはずであるが、同年12月には安芸の 尼子経久(あまこつねひさ) の属城攻めの義興に援兵を送り、翌6年7月には 安芸府中城 を陥れ、草津へと転戦している。将軍義晴の仲介による 和睦(わぼく)成立の結果であろうか。しかし、この和も享禄元年(1528)の義興の逝去により 破綻(はたん)を来し、天文元年(1532)には、義興の跡を継いだ 義隆(よしたか) との間に合戦が始まった。まず、筑前で火の手があがり、豊前宇佐郡 豊後速見郡へと拡大していった。中でも天文3年の速見郡 大牟礼(おおむれ)山合戦 は最大の激戦で、双方に多くの戦死者を出している。野史には 勢場ヶ原(せいばがはる)合戦 とみえる。この対立は以後も続くが、将軍義晴の仲介により天文7年3月に和睦が成立し、筑前秋月で調印がなされた。以後義鑑は菊池氏との、義隆は尼子氏との対策に追われる。
[橋本 操六]
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