大友義長 ( おおともよしなが)

大友家安泰のため「条々」を示す

 1478−1513 戦国時代後期の武将。大友19代家督。父は18代 親治(ちかはる) 。母は肥後菊池一族木野対馬守親則娘。童名塩法師丸。通称五郎。初め 親匡(ちかただ) 、後に 義親(よしちか) 義長。「 入江文書田原系図 」には 親元(ちかもと)ともみえる。 修理大夫(すりだいふ)、従四位下。法名は大雄院天真清昭(照)。
〈家督襲封〉
 大友16代 政親(まさちか) と17代 義右(よしすけ) 父子の内紛を処理した政親の異母弟親治は、将軍の 偏諱(へんき)を請うこともせず、直ちに嫡子親匡を大友家家督に据えたらしく、明応6年(1497)には 管領(かんれい) 細川 政元(まさもと) に書信を通じている。翌7年2月には政元に追われて越中にあった前将軍 足利 義材(よしき) が 一色親元(いっしきちかもと) をして五郎の家督にクレームをつけ、あわせて 大内 義興(よしおき) に対して五郎と相談の上、早急な上洛を命じている。義興は同年4月、五郎を廃して13代 親綱(ちかつな) の子 大聖院宗心(だいしょういんそうしん) の擁立を公然と打ち出した。12月、親治が再び使僧 勝光寺光讃(しょうこうじこうさん) を義材のもとに派遣したことにより、以後クレームはつかなくなる。明応8年7月、足利義材(当時は 義尹(よしただ))は大内との 和睦(わぼく)を親治に命じると共に、五郎を将軍 足利 義澄(よしずみ) 攻略に参陣させるよう求めている。これに対し、親治 親匡父子は将軍義澄(当時は 義高(よしたか))と意を通じて豊前に出兵して 門松(笠松)城 を攻略しようとした。これにより、大聖院宗心は周防に難をさけている。8月7日門松城は落ちた。翌9年3月、将軍義澄は周防国に敗走した義材攻略を九州の諸将に命じている。文亀元年(1501)6月13日親匡の家督が義高により 安堵(あんど)され、閏6月23日付けで豊後 筑後 豊前 守護 職(しき) 以下の相続を追認された。この追認は親治の大友家督の承認でもある。また、義高より偏諱を与えられ義親と改名する。
〈父親治との共同統治〉
 大友家督に就任した文亀元年12月、幕府は九州 四国 安芸 石見の諸将に大内義興の攻略を命じた。九州では、大友義親 大友 親治(ちかはる) 大内 高弘(たかひろ) 少弐資元(しょうにすけもと) 菊池 武運(たけ  ) 河野(こうの)六郎 あてに命令が下されている。また、翌文亀2年の 草野興秀(くさのおきひで) あて 知行(ちぎょう)給与をみても、親治発給の知行 宛行あて,おこない 状と義親が袖判を据える知行分注文とで一具となるように、宛行行為の主体は親治にあり、義親の知行分注文は 政所(まんどころ) 的な役割しか果たしていない。このように、大友家に対する幕府の態度や大友家内部の執政状況をみると、独立して執政を行うべき義親の権限は極めて弱く、後見的立場にある父親治の力が表面にあらわれているといえる。この状態は義長の嫡子 親安(ちかやす) ( 義鑑(よしあき) )が家督としての行為を行うようになる永正13年(1516)まで続く。
〈特異な書式を用いる〉
 大友氏の知行宛行は、まず国主の知行宛行状(預ヶ状)で意志表示がなされ、それを承った 加判衆(かばんしゅう) (老臣)が下地打渡機関(政所 欠所奉行等)に対し、打渡しを命じる。この命を受けた下地打渡機関は、検使が確認した当該地の詳細を示した目録(坪付)を打渡状に添えて交付するのが通常の姿である。ところが文亀2年の草野興秀あて知行宛行では、父親治との共同統治という状態にあったため、意志表示すべき国主が下地打渡機関的な役割しか果たしていないことになっている。但し、袖判を据えることによって家督の権威をあらわしたものと考えられる。この方式は永正5年の知行宛行に特徴的にみえる。11月3日義長は 田尻種久(たじりたねひさ) 草野興秀に筑後国内の地を宛行う預ヶ状を発した。この意志を承った加判衆は連署して 守護代 に当該地を打渡すよう同日付けで伝達した。この場合も文亀2年の例にように、義長の袖判を据えた知行分注文が同日付けで発給されているのである。このことは、義長が領国筑後の土地台帳を掌中に収めていたことを意味している。この異なった書式は出陣先の便宜略式の手続であろうとする説もあるが、文亀2年の例から検討の余地が十分ある。
〈大友家安泰の 条々(じょうじょう) を示す〉
 父との共同統治という実態の背景には義長の健康状態が見え隠れする。そのためか、義長は父親治への尊敬の念が強かったらしい。例えば、親治の出陣に当たっては大友家の社奉行 実相寺等玉(じっそうじとうぎょく) に命じて諸郷荘の社家に戦勝祈願を指令させていることなどである。それが端的に示されたのが、永正12年12月13日付けで公布された条々である。この条々は、戦国大名の指標である分国法として一応の評価はあるものの、内容的には家訓的なもので終始している。その第4条に親治夫妻への奉仕と経済的配慮を嫡子親安に求めているのである。このほか、母を大切にすること、弟菊法師丸( 菊池 重治(しげはる) )の肥後入国の実現、妹を可愛がること、伯母を大切にすることなど、義長の性格を示す条項が多い。条々は17条と追加8条の25条からなり、重臣の取り扱い、一姓親類の 寄力(よりき)禁止、内訴の禁止、進物の要求、筑後駐在等を示し、同15年6月3日の条々4か条では、 田原 星野 阿蘇 相良(さから)氏 への慎重なる対応を求めている。
[橋本 操六]

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