大友義統 ( おおともよしむね)
大友歴代の凡将
1558−1605 戦国時代末期の武将。永禄元年(1558)、豊後 府内 上野館 生まれ。 大友 義鎮(よししげ)( 宗麟(そうりん)) の嫡子。母は 奈多鑑基(なだあきもと) の娘。幼名長寿丸。元服して五郎。将軍 足利 義昭(よしあき) の 諱(いみな)字を受けて義統。天正16年(1586)ころ、 豊臣秀吉 の諱字を受けて 吉統(よしむね)。キリスト教名 コンスタンチノ 。官途名左兵衛督また侍従。天正元年12月28日、家督相続。文禄2年(1593)、入道して 宗巌(そうがん) 、のち 中庵(ちゅうあん) 。慶長10年(1605)7月19日、常陸国(一説に江戸牛込)で死去。
〈領国統治〉
宗麟は家督譲与後も後見を加える。天正6年9月、 日向進攻 にあたって、義統は宗麟から大野郡 野津 に駐留を命じられた。この時、義統は キリスト教 信仰に熱中し、家臣から信仰に意を用いないで善政を行うよう忠告を受ける。義統が駐屯する野津地方には、爆発的に信者が増えたという。日向進攻の後、寺社領を奪って家臣に与えたのは、仏 神教否定からであった。自領が 潰滅(かいめつ)の危機に 瀕(ひん)すると義統の信仰熱は急速に冷え、 キリシタン 迫害を始める。宗麟の後妻の出産に際して、家督継承の不安からか子どもの殺害を主張、宗麟との対立を生じた。母や 田原 親賢(ちかかた) の強力な意見があったと宣教師はみている(『 大分県史料 』14)。義統の信仰態度は一貫性を欠いていた。天正8年、 田原 親貫(ちかつら)の乱 中、不満をもつ重臣らは義統の引退、宗麟再出馬を要請。宗麟は義統の名誉を尊重して引退を認めず、義統に助力して謀反を鎮定することを約した。 一万田宗慶(いちまんだそうけい) らは、義統の移り気、無思慮な領地給与、賞罰の不公正、宿老の軽視など18か条をあげて諌言したという(『 増補訂正編年大友史料 』24)。天正14年10月、 豊薩(ほうさつ)合戦 に当たり、 島津 軍は豊後に侵入、国内は 馬蹄(ばてい)に 蹂躙(じゅうりん)される。12月、 戸次(へつぎ)河原の合戦 では、豊臣秀吉の指示に反して大分郡 鶴賀(つるが)城 救援に出撃、大敗を喫して 高崎城 (大分市)、豊前 龍王(りゅうおう)城 (安心院町)まで後退するという失態を演じ、豊臣秀吉の激怒を買う。義統の受洗は天正15年3月、場所は逃走先の豊前 妙見岳(みょうけんだけ)城 。キリシタン武将 黒田官兵衛 の強力な 勧奨(かんしょう)によった。官兵衛の人望と権威によるところが大きかったが、義統もまた、国を保持するために官兵衛の勧めを受け入れたとみられている(『 フロイス日本史 』8)。6月、義統は豊臣秀吉の禁教令が出されると 棄教(ききょう)、宣教師の退去を要求するとともに 志賀 親善(ちかよし) らに棄教を強要し、領内のキリシタンの迫害を始めるなど国守としての信頼を落とした。
〈朝鮮出兵の失策と除国〉
文禄元年3月、大友吉統(義統)は豊臣秀吉の命を奉じ、6,000の軍兵を率いて出陣、肥前 名護屋(なごや)で 黒田 長政(ながまさ) の指揮下に入る。4月、渡海後、大友軍は長駆して 鳳山(ほうざん)城を占領、11月、豊臣秀吉は奮戦する吉統に朱印状を与えて軍労を賞した(『 大友家文書録 』)。翌2年正月、明の武将 李如松(りじょしょう)の猛攻を受けた平壤守備の 小西行長(こにしゆきなが) は、大友吉統 黒田長政 小早川秀包(こばやかわひでかね) らに援軍を求めた。長政 秀包は救援要請を断り、大友軍もまた救援に赴かず、黒田陣へ逃亡した。豊臣秀吉は「大友 勘当(かんどう)状」を発して吉統逃亡の罪を責めた。朱印状には、先方の状況判断もせず崩れ退くことは日本でもあるまじきこと、明国にもはばかることである。島津との戦いでは 臆病(おくびょう)にも豊前龍王までも逃走した。島津戦のことを不問にし、豊後国支配を認めただけでなく、羽柴一門にも列した。逃亡は羽柴家の名誉をも傷つけた。したがって、除国のうえ身柄を 毛利 輝元(てるもと) に預けると述べている(『 豊公遺文(ほうこういぶん) 』)。当時、吉統は鳳山城にはおらず、黒田陣で軍事を計っていた。城内では志賀親善の後退論、 吉弘 統幸(むねゆき) の救援論に分かれてまとまらず、ついに逃亡となったという。のちのことであるが、大友家内部では士卒の失敗は将の責任であると、吉統の指揮力の欠如を認めている(『大友家文書録』)。文禄2年5月、豊臣秀吉は吉統を周防国山口の本国寺に幽閉した。ここに鎌倉時代からつづいた大友氏の豊後国支配が終わる。吉統は 剃髪(ていはつ)して宗巌と号した。翌3年9月、さらに山口から水戸に移され、 佐竹義宣(さたけよしのぶ) の監視下に置かれた。吉統に対する処分は秀吉の死後、再吟味されることになる。大老 徳川家康 のきびしい追求によって、石田三成と 福原 直高(なおたか) らが 贔屓(ひいき)の 沙汰(さた)をし、厳正な賞罰を行わなかったことが発覚したといわれている。慶長4年(1599)、赦免。翌5年9月、 関ケ原合戦 に際して西軍に加担、 黒田 如水(じょすい) (官兵衛)と速見郡 石垣原(いしがきばる) (別府市)に戦って降参し、出羽国に 配流(はいる)。旧臣との連携を避けるためであるという。のち常陸国に転じ、配所で没する。享年48歳。法名豊鐘院殿中庵宗巌大禅定門。嫡子宗五郎( 義宣(よしのぶ) 義乗(よしのり) 能乗(よしのり) )は利発のゆえをもって500人 扶持(ふち)を与えられ、在鮮中、 加藤 清正(きよまさ) に預けられたが、のち、徳川家康に預け替えが行われた。
参考文献 渡辺澄夫『大分県の歴史』
[芦刈 政治]
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