大友頼泰 ( おおともよりやす)

豊後に下向土着した大友惣領家

 1222−1300 鎌倉時代後半の武将。豊後 守護 職(しき) 鎮西一方(ちんぜいいっぽう)奉行 職兼帯。初名 泰直(やすなお) 。童名薬師丸、太郎、 大炊助(おおいのすけ)、丹後守、出羽守、兵庫頭、法名 道忍(どうにん)。 謚号(しごう)常楽寺殿道忍大禅定門。貞応元年(1222)生まれ。父は大友2代 親秀(ちかひで) 、母は三浦 家連(いえつら)の娘。正安2年(1300)7月19日没、享年79歳。
〈初期の事績〉
 仁治3年(1242)以前に豊後守護職 鎮西一方奉行職を相伝したことはわかるが、正確な年次未詳。 能直(よしなお) 親秀同様にはじめは鎌倉 京都に在勤し、 守護代 ( 小田原(こだわら)氏 か)を派遣して支配した。宝治元年(1247)幕府は京都 大番(おおばん)23番を定め、各番3か月間在洛警固を命じたが、頼泰は18番。建長4年(1252)幕府が 格子上下番(こうしあげさげばん)を定めた時は、6番に名が見えるので、当時鎌倉にいた事がわかる。
〈豊後下国と要害警固〉
  蒙古(もうこ)襲来 が必至と見た幕府は、文永8年(1271)に西国に 所領(しょりょう)を有する御家人の下国警固を命じたが、この年下向したとするのがこれまでの通説。芥川龍男は文永9年4月23日以降という新説を出した。ただし頼泰は建長6年に 守護所 となる 高国府(たかごう) の一部を本主 備後法眼幸秀(びんごほうげんこうしゅう) から獲得しており、文永6年3月23日玖珠郡 野上 資直(すけなお) に今月中に上府を命じた 書下(かきくだし)(守護の命令書)によると、頼泰は在国しているらしい(『 大友家文書録 』)。文永8年9月、幕府は九州に所領を有する東国御家人に、下向して異国 防禦(ぼうぎょ)と悪党鎮圧を命じた。大友頼泰は翌年2月朔日(1日)、国内御家人に 廻文(かいぶん)を回し、東国御家人が下着するまでの3月 晦日(みそか)まで、筑前 肥前の要害を警固せよとの関東 御教書(みぎょうしょ)を伝達した。その役所(割当警備区域)を受け取り、御家人たちを配置するため、すでに代官(守護代)を派遣したので、各自彼から役所を受け取り警固に当たれ、と命じている(「 野上文書 」)。 異国警固番役 のはじまりであるが、その役所や分担期間は未詳。
〈 文永(ぶんえい)の 役(えき) 〉
 文永11年10月20日蒙古軍は、兵3万余、900 艘(そう)の軍船で博多湾に襲来、 今津(いまづ) 百道原(ももちばる) 博多方面から上陸してわが軍に損害を与えた。蒙古軍の集団戦法と「てっはう」等の新兵器に圧倒されたわが軍は、 大宰府 に向けて退却し 水城(みずき) の線に防衛線を 布(し)いた。蒙古軍はその夜全軍を船に引き上げた所、強風に遭い船が覆没して敗退した。大友頼泰に率いられた豊後御家人は 姪(めい)ノ 浜(はま) 百路原(ももちばる)等の博多西方海岸で戦った。戦後建治元年(1275)幕府は頼泰に対し、第一線で進み戦わず、又当境を守ると称し出陣しない者の多い事を責め、その人名を注進させ罪科に処する事を、御家人たちに布告させている。
〈異国警固番役 異国出兵 博多 石築地(いしついじ)〉
 蒙古再来必至と見、幕府は文永11年12月異国警固番役の体制を強化し、肥筑海岸の常時警固を令した。1年を春 夏 秋 冬の3か月あての4季に分け、春(筑前 肥後)、夏(肥前 豊前)、秋(豊後 筑後)、冬(日向 大隅 薩摩)に配当分番させた。勤務終了者には守護が 覆勘状(ふくかんじょう)(終了証)を出した。その後若干変更があるが、番役は幕府の存続する限り続けられた。
 幕府は高麗海岸の敵前進基地覆滅のため、異国出兵の計画を建治元年12月発令した。大友頼泰はこれを受け国内御家人に所領面積 領内船数 櫓(ろ) 水手(かこ) 梶取(かじとり)の名前と年齢等、及び出兵者の人数 年齢 武具等の報告や、船 船員等の博多 廻漕(かいそう)の準備を命じた。ただしこれは中止され、のち弘安4年(1281) 少弐(しょうに) 大友を大将とする再度の計画も発令の後中止された。
 これと平行して建治2年はじめころ、博多湾岸に 石築地 構築計画を発令、各国守護に実施させた。異国出兵者は免除(ただし中止)。豊後御家人の分担区域は長く不明であったが、「 杵築 生桑寺(いくわじ)文書 」から 香椎(かしい)前浜と判明、大友頼泰は香椎宮中に奉行所を置き指揮した。この石築地分担地が、各国警固役の分担地域となった。
〈弘安の役と戦後処理〉
 弘安4年蒙古が再来したが、石築地に阻まれ、一部が 志賀島(しかのしま)に上陸し大友軍と交戦し進行を阻止され、海上で台風にあい全滅した。戦後恩賞問題が続出し、幕府は御家人の鎌倉出訴を止めるため、弘安7年特殊合議訴訟機関を博多に設け、同9年 鎮西談議所(ちんぜいだんぎしょ) とした。少弐 大友 宇都宮 渋谷 が任命され、永仁元年(1293) 鎮西 探題(たんだい) 設置まで続く。恩賞は弘安9年から徳治2年(1307)まで7回実施が確認され、大友 少弐がこれを奉行している。戦後鎮西諸社への復興、弘安8年 豊後国 図田帳(ずでんちょう) の作成等に活躍。正安2年9月17日没。墓は大分市秋岡 常楽寺(じょうらくじ) 。
 参考文献 相田二郎『蒙古襲来の研究』 芥川龍男『豊後大友氏の研究』(『戦国史叢書』9)
[渡辺 澄夫]

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