大野荘 ( おおののしょう)

大友庶家最初の土着地

〈成立〉
 『 和名抄(わみょうしょう) 』の大野郡4郷の一つである大野郷が 荘園 化したもので、時期は文治2年(1186)〜建久9年(1198)ころと推定されている。荘名の初見は、京都の「 三聖寺(さんしょうじ)領文書惣目録」に「建久9年実検目録送文」とある。
 治承5年(1181)、 緒方 惟能(おがたこれよし) らとともに反平家方として挙兵した 大神(おおが)姓 大野六郎 家基(いえもと) が、元暦2年(1185)、宇佐宮宝殿破却を理由に 配流(はいる)された 緒方 惟栄(これよし) らが 源 義経(よしつね) の挙兵に加担して没落したことに連坐することを恐れて、私領化していた同郷を三聖寺に寄進したものであろうという。荘域は現大野町を中心に朝地町 千歳村に及ぶ。
〈構造〉
 大野六郎家基の子九郎 泰基(やすもと) は建久7年、 中原 親能(ちかよし) が豊後国 守護 職(しき) に 補任(ぶにん)されたころ、同郡 神角寺(じんかくじ) 山に挙兵して討伐され、その 没官(もっかん)された大野荘を中原親能が獲得し、これを養子 大友 能直(よしなお) に譲ったらしい。貞応2年(1223)、能直は妻 深妙(しんみょう) にこの荘を譲った。延慶2年(1240)、尼深妙は大野荘を7人の子女に譲っている。すなわち、大野荘を4つの村に分け、各村を2等分して与えた。西から東へ 志賀村 、 上村 、 中村 、 下村 とし、各村はいくつかの名田と地頭給田、 上家(じょうけ)分(領家 佃(つくだ))、在家薗でまとめられていた。ただし、滅びた大野氏は大友能直の第10子 能基(よしもと) が 嗣(つ)ぎ、下村100町を大友系大野氏が相伝した。弘安8年(1285)の「 豊後国 図田帳(ずでんちょう) 」には、「大野庄300町、領家三聖寺、中村76町 地頭職戸次二郎重頼、下村100町、内69町9反小、大野太郎基直相続、22町1反余 基直妹相続 5町6反余 同氏女善修理亮廣衡妻今死去、子息鶴丸 3町1反 輔阿闍梨良慶 上村51町内25町5反 横尾局跡 御所女房按察御局 25町5反 大和六郎兵衛入道孫鶴丸連慶検校 志賀村73町内 36町5反 詫磨別当能秀 同次郎時秀 法名寂尊 同新三郎資秀 同四郎太郎泰長配分 33町1反小、志賀太郎泰朝 法名阿法 嫡子蔵人太郎貞朝 貞親烏帽子継云、3町3反 大輔阿闍梨禅秀 阿法弟 」と当時の地頭職の所持状況を記述している。
〈変遷〉
 史料的に恵まれている 志賀氏 の所領志賀村半分を例にとると、志賀村73町の南半分36町5反は、 近地(ちかち)名 3町3反、 朝倉名 5町1反、泉名2町3反、大方名7町の4名田で約18町、本在家12家、領家佃3町6反と薗5町6反、地頭給田2町5反、領家分在家7家、大方分在家8家と田6町3反、薗2町2反となっていて、遠隔地にもかかわらず領家佃の比率が高いことと、本在家 上家分 大方分の3種の在家支配を行っていたことが特徴的である。建治2年(1276)、 異国警固番役 が催促されると、近地名3町3反の地頭 志賀 禅季(ぜんき) は、 惣領 守護所 より直接催促を受けたいと、志賀惣領から独立しようとしたが 斥(しりぞ)けられた。この後、禅季は 泊寺(とまりじ) 院主(いんず)職及び地頭職を 大野 基直(もとなお) の後家に売却したが、永仁の 徳政令 で、兄 泰朝(やすとも) に与えられた。泰朝は子の 朝郷(ともさと) を禅季の養子として、これを譲って、南志賀家を成立させた。正応5年(1292)、志賀南方地頭泰朝と三聖寺方 雑掌(ざっしょう)と検注をめぐって争い、結局、 下地中分(したじちゅうぶん) を命ぜられた。正和3年(1314)、先の中分が坪分けだったため紛争が絶えないとして分直し、西依は領家方、東依を地頭方とした。それでも紛争は絶えず、元応2年(1320)、幕府は 志賀次郎 貞泰(さだやす) の 狼藉(ろうぜき)を訴えた雑掌との参決を命じている。また、正安3年(1301)には、志賀村領家佃をめぐって、 志賀泰朝 と 詫磨秀治(たくまひではる) と相論が起こったが、元徳元年(1329)、両者は和与した。延慶3年(1310)、泰朝の女子諸王が嫁いだ 朝倉 朝親(ともちか) と、朝倉名地頭職をめぐって争論が起こり、嫡子 貞朝(さだとも) が朝倉名をとり戻した。使節が入部したとき、朝親は 預所(あずかりどころ)方へ移っていて、住宅は跡形もなく、在家を焼き払っていた。南北朝時代は、この荘が両勢力の通路であったため、大きな変化が見られた。貞和6年(1350)、志賀村内 堀池名 が、 詫磨千見左近将監 の敵方 与同(よどう)のため、 志賀頼房 へ預置かれ、正平9年(1354)、 南朝 方に 与(くみ)した 大友行宗 は、大野荘内田村 宮貞 羽歩 桑原上下等の名々地頭職を阿蘇社へ寄進、同17年(1362)阿蘇社へ寄進された下村内は本主が味方に加わったため、 直入郷 に替所を与えている。この年、志賀頼房は 高崎山 の 斯波氏経(しばうじつね) に 祇侯(しこう)し、子息氏房は大野荘 鳥屋(とや)城 に 篭城(ろうじょう)して、 菊池 武光(たけみつ) の本国との通路をふさいだ。応安2年(1369)ころ、志賀惣領家は、 松本合戦 の恩賞として、守護領直入郷の検断職 代官職両職を与えられ、のち 岡城 に移り発展するきっかけを得た。同3年の 大友 親世(ちかよ) 当知行(とうちぎょう) 注文によると、上村半分が守護領となっている。永享5年(1433)、 大友 持直(もちなお) は 志賀 親賀(しんが) へ中村内山野を預け、志賀村内寺家分代官職を預けている。同8年、 大友 親綱(ちかつな) は同人へ味方になれば、名字の地をまず半分返還すると誘っている。 大友 宗麟(そうりん) 義統(よしむね) 父子は三聖寺に対して、当荘年貢を300貫文で請負っており、守護権力で当荘が長く維持されていたと考えられる。
 参考文献 『朝地町史』
[竹本 弘文]

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