大野泰基 ( おおのやすもと)
神角寺城で自刃した大神姓大野氏
平安末−鎌倉初期の武将。 豊後 大神(おおが)一族 の大野氏。大友氏豊後 守護 補任(ぶにん)以前の在地領主。幼名九郎。 姥岳(うばだけ)( 祖母嶽(そぼだけ))大明神(高千穂明神とも)の 神裔(しんえい)と伝えられる 大神 惟基(これもと) ( 胝大太(あかがりだいた)、 皸大弥太(あかぎれだいやた))の4子 大野 基平(もとひら) 4世の孫。父は 家基(いえもと) 。生没年月未詳。もともと大野郡 大野郷司 で、 大野荘 成立後は同荘司となるか。同荘内 上津(あげつ)八幡宮 大宮司(だいぐうじ)。 鎮西(ちんぜい)奉行 中原 親能(ちかよし) に亡ぼされたらしい。
〈大友 能直(よしなお)入国討伐説〉
『 大友家文書録 』 「 大友氏系図 」等では、建久7年(1196)(同4年=1193説もある)、 大友能直 が鎮西奉行、豊前 豊後守護 職(しき)に補任せられ、4月16日弟の 古庄重能(ふるしょうしげなお) を先発させ、自ら6月11日速見郡浜脇浦から上陸した。この時国中武士は 風靡(ふうび)し、 緒方 惟栄(これよし) が先導となったが、同族 阿南惟家あ,なん,これ,いえ は 高崎山 に、弟 家親(いえちか) は 鶴賀(つるが)城 (大分郡)に、 大野九郎 泰基(やすもと) は大野郡 神角寺(じんかくじ) 山に 拠(よ)り、共に抗したとある。また同書には、先発の古庄重能が4月16日神角寺山を攻め、泰基を殺したともある。この説は第一に、能直を豊前守護職とするのは豊前守( 名国司(なこくし))の誤解であり誤り。第二は大野荘地頭職は大友能直が養父中原親能から譲得したもの(「 志賀文書 」)である以上、大野泰基の討伐は中原親能の時となり、不合理である。なおついでながら、中原親能は正治2年(1200)まで玖珠郡御家人の 所領(しょりょう)争いを裁決とているので、能直の家督譲得は同年から親能の卒年承元2年(1208)までの間となり、おそらく建永元年(1206)ころと推定される。いずれにしても、能直の建久入国説は誤りであり、大野泰基討伐は中原親能の時と推定される。
〈 石志(いわし)文書と大野九郎謀反〉
大野泰基討伐については、豊後方面においてこれを裏づける資料は全くなく、伝説の域を出なかったが肥前国松浦党の「 石志文書 」承元2年閏4月10日の 石志 壱(さかん) の譲状案に、壱が以前豊後国大野九郎(泰基)の謀反の時、豊後に出征した際に所領を嫡子 潔(きよし)に譲って出発したが、今また改めて譲与すると述べている(『 平戸松浦家史料 』)。出陣の時所領を譲与して出発するのは、戦死を予想しての武家社会の慣例で、無事 凱旋(がいせん)すれば又重病などの時譲り直すという事になる。石志壱が死を覚悟して出陣したこと、しかも肥前国の御家人まで動員されたことは、大野九郎の反乱の大規模であったことを裏書きする。そうしてまた、これによって大野泰基の謀反 討伐が、歴史的事実であることが証明されたのである。ただしそれは承元2年以前、建久7年(1196)以後というだけで、正確な年次は依然として不明である。「 豊後大神氏系図 」に、「謀反無実の 讒言(ざんげん)により、自害しおわんぬ」とあるのをみれば、彼の謀反は讒言によるもので、本心ではなく、そのため自害したというのである(「 都甲(とごう)文書 」)。どうした謀反であるか、これでは明らかでない。
〈大野泰基討伐は義経 与同(よどう)の罪〉
ところが、筑後大田吉蔵本「豊後大神氏系図」によると、「九郎判官義経同心、領知因って没収せられ、鎌倉勢と合戦数度に及び、落去の時自害す」とある。つまり、緒方惟栄らと同様に、 源 義経(よしつね) に味方したということで領地を没収され鎌倉勢と交戦し、敗れて自害した、というのである。文治元年(1185)緒方惟栄は 後白河院(ごしらかわいん) の命令で義経九州下向の案内役となって京都を退去し、 大物浦(だいもつうら)で難波して捕えられ、上州沼田荘に配流された。この時義経らは身をもって逃れ大和山中に隠れ、のち遂に奥州に入る。 源 頼朝(よりとも)は豊後の 在庁官人(ざいちょうかんじん)及び 国人(こくじん)衆 (生えぬきの武士たち)が義経に味方しているとの口実で、豊後を 関東 御分国(ごぶんこく) の一国として 奏請(そうせい)し、直轄支配することにした。この時義経一味が下向していたならば、豊後国は奥州征伐に匹敵する大規模な討伐作戦を受けたに違いない。しかし義経下向のないことがわかって、関東御分国は間もなく解除されるが、なお幕府の監視は続いたはずである。大野泰基は誰かの讒言により、幕府の警戒網にひっかかったものと思われる。肥前国の御家人まで動員された大規模作戦の原因が、これで理解されることになる。
〈大野氏一族〉
前記の大田吉蔵本「豊後大神氏系図」では、次のごとく、大野氏から 大牟田 朽網(くたみ) 敷戸(しきど) の諸氏が分出したという。上津八幡社蔵「大野氏系図」では、泰基− 能基(よしもと) − 基定(もとさだ) − 秀基(ひでもと) と同大宮司職を継ぎ、のち 三代(みしろ)氏 と改めたという。大野一族が余り繁栄しなかったのは、泰基の討伐が原因であろう。
[渡辺 澄夫]
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