大畑城 ( おおはたじょう)
大友氏の下毛郡の拠点
〈所在〉
現中津市の南部、三光村と接する大字 加来(かく)の集落の西のわずかに高い丘一帯がその城址とされている。
〈由来〉
「 賀来(かく)系図 」(「 賀来八太郎文書 」)によると、元暦元年(1184)3月、 源 義経(よしつね) が 緒方三郎 惟栄(これよし) に命じて、豊前豊後に5城を築かせた。その一つが 芝崎城 (豊後高田市)、その二が 高森城 (宇佐市)、三が 犬丸城 (中津市)、四が大畑城、五が 塩田城 (福岡県築城町)で、大畑城には二郎惟興をして守らせ、これより大畑を加来と称し、子孫相続いて城主となったという。しかし、賀来氏の確実な史料は戦国初期の大永3年(1523)、「宇佐神領実得、時元并大石寺両名坪付」(「 成恒(なりつね)文書 」)に 賀来新左衛門尉 が3筆の作職を所持していること以降である。付近の福島氏や緒方氏、 萩原氏 と共に、賀来氏も文明、明応のころ、大友氏が豊前国 守護 職(しき) を数年間所持していた時期に、この地に 知行地(ちぎょうち)を与えられて、一族の者が移住してきたものであろう。
〈大畑城をめぐる攻防〉
賀来新左衛門尉は、天文元年(1532)、 大友 義鑑(よしあき) の豊前侵攻の際に 杉三河守 興重(おきしげ) の 被官(ひかん)として 妙見岳(みょうけんだけ)城 (宇佐郡)に 馳走(ちそう)し、同3年、山香 大牟礼山(おおむれやま)の合戦 後の5月15日、豊後高田に侵入したとき、人数等「分過」の馳走をしたと杉興重の感状を得た。その後、天正6年(1578) 日向高城 の敗軍後、 毛利 秋月 高橋氏と結んで、 牢人(ろうにん)化していた 野仲 鎮兼(しげかね) が旧領回復を狙って、成恒氏の 田嶋崎(たじまざき)城 を襲って、成恒氏を走らせ、ついで大畑城を攻撃してきた。宇佐妙見岳城督武蔵 田原 紹忍(じょうにん) は、近辺の土豪、 草場右衛門尉 、 福嶋佐渡守 、 成恒越中守 鎮直(しげなお) 、 蠣瀬(かきぜ)弾正忠 統忠(むねただ) 、 大畠佐渡守 等に命じて、賀来 築地の 切寄(きりよせ) に 篭城(ろうじょう)させ、天正7年から同10年にかけて、 手火矢(てびや)(鉄砲) 合戦をくり返した。天正8年10月、田原親貫を滅ぼして、田原本家を嗣いだ 大友 宗麟(そうりん) の子 親家(ちかいえ) は田原紹忍に替わって豊前方面の経路を担当し、大畑城衆との連絡に努め、「去冬以来の総乱、是非に及ばず候、最前より賀来安芸守切寄にいたり差 篭(こも)り、別して 軍忠(ぐんちゅう)を励まるのとおり、比類無く候」(「成恒文書」)といった書状を多く発給した。天正10年7月には、成恒氏が 高橋 元種(もとたね) に所領の 安堵(あんど)をえているから、大畑城もこのころ、野仲、高橋方の手に落ちたのではなかろうか。「 両豊記(りょうほうき) 」には天正7年、 島津 義久(よしひさ) 方に与した 長岩(ながいわ)城 主野仲鎮兼が、天正10年 賀来安芸守 統直(むねなお) を攻めたが、福嶋氏の伏兵のために敗北し撤退したことを詳述しており、『中津川軍記』には、天正7年から同14年まで、野仲鎮兼が48度も攻めたが、落城しなかったとある。大畑城が下毛郡における大友方最後の拠点として、下毛平野部の武士をここに集めて、野仲、高橋、毛利勢の侵攻を阻止しようと防戦をつづけたのである。天正14年9月、 黒田 孝高(よしたか) が秀吉の先発隊として豊前に入国すると、山田、広津、中間、八屋、時枝、宮成といった上毛、下毛、宇佐郡の武士たちが、いちはやく人質を出し恭順の意を示した。翌天正15年7月、孝高に豊前6郡が与えられると、直に 検地 を開始した。孝高が 肥後国 一揆(いっき) 鎮定のため、筑後久留米まで進軍したところ、その隙をうかがって豊前の各所で一揆勢が居城に楯篭って抗戦の構えをみせた。「 黒田家譜 」には、「犬丸の城、賀来の城、福島の城に立篭る。是に依て、長政、馬ヶ岳より広津まで馬を出さる。其時、鬼木掃部 伊藤田氏 緒方氏等、広津へ 動(はたら)かんと相集る所に、長政是を聞きて、此方より押よせ、数度戦て敵を切崩さる」と、伊藤田 中尾氏がまず切り崩され、ついで犬丸城が攻略されて数百人が討ち取られ、天正15年12月、加来の城、福島の城が 井樓(いろう)(やぐら)をくみ、 竹束(たけたば)をならべて慎重に攻奇せられて、次第に城よわり、城中の者共も心替し、大将を討て降参したと述べられている。「両豊記」は城主賀来安芸守統直は城を落ちて、主従五騎、豊後に向かおうと秣村境の幕の峯まで遁れたところ 秣(まくさ)大炊介 の伏兵にあって討ち取られたとある。『 豊前志 』は、大畑城址について「三宅三大夫を城番としき、東に 黒水(くろうず)あり、西に 三角池(みすみいけ)ありて要害よき城地なり。今も付城 外堀など云ふ田の字あり」と述べ、この地が、織豊期の鉄砲戦に適した 平城(ひらじろ) の一典型であったことを考えさせる。
参考文献 『下毛郡誌』 「両豊記」
[竹本 弘文]
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