岡城 ( おかじょう)

天然の要崖臥牛城

 「岡の城は 竹田城(と称す)かねて聞およびしより 嶮城(けんじょう)にして、眼を驚せしなり。海内三嶮城の最上と称せるもむべなり。… 麓(ふもと)にはね橋のかかりし川を滑瀬と称して、土砂は少しもなく…少しにても踏みあやまれば 怱(たちまち)すべり倒れて 怪我(けが)をする事なり。橋のもとより城を見あぐれば、四方より削り立ちし山のごとく、雑樹竹などの生へ茂りしても見へ、足軽ていの家居も有りて、橋の傍に番所と 覚(おぼ)しき有り…」これは天明3年(1783)、臼杵から野津 市(いち)を経て 岡城下 に入った 古河 古松軒(こしょうけん) の岡城描写の一節である。
〈島津軍の猛攻に堪えた嶮城…岡城〉
 中川氏が岡に入部した文禄3年(1594)以前の岡城の歴史については、史料的裏付けがないため、種々の伝説が生まれている。その代表的なものに文治元年(1185)、兄源 頼朝(よりとも)と対立した源 義経(よしつね)を迎えるために 緒方 惟栄(これよし) が築城したとする説があり、また南北朝期の建武のころ(1333〜38)に 志賀 貞朝(さだとも) が築城したとする説、さらに同時代の康安2年(1362)に 少弐冬資(しょうにふゆすけ) が岡城に 拠(よ)ったとする説などがあるが、前二説は渡辺澄夫をはじめ中世史研究者によって否定されており、後者も疑問視されている。そして歴史上に城として姿を現わし始めるのは 大野荘 志賀村 を 本貫(ほんがん)の地とする 志賀氏 ( 北志賀氏 )が、応安2年(1369)ころから 直入郷 の検断職を得て直入郡に発展するようになってからである。そして岡城を有名にしたのは戦国時代末期の天正14〜15年(1586〜87)の、 島津軍 の豊後侵攻( 豊薩戦争 )に際して、豊後 南郡衆(なんぐんしゅう) が島津軍に内応 投降した中にあって、岡城に拠った 志賀 親次(ちかつぐ)( 親善(ちかよし)) は、 滑瀬(ぬめりぜ)口からの島津軍の猛攻に独りよく堪え、岡城をして天下の嶮城たらしめた(「 大友興廃記 」)。当時の主要城郭は現岡城跡の東部の下原口方面にあり、挾田 十川(そうがわ)の村落がいわゆる城下であったと考えられている。
〈文禄3年、中川氏の岡入部〉
 文禄2年(1593)、 大友 義統(よしむね) が 朝鮮出兵 での失敗で 改易(かいえき)されたあと、豊後は 太閤 蔵入地(くらいりち) となり、次いで豊臣家臣への恩賞地となって、いわゆる 小藩分立 時代を迎えた。 中川 秀成(ひでなり) は直入郡と大野郡の内に6万6千石を与えられて、文禄3年、播州三木城から入部した。そして上記の志賀親次の旧館にはいり、城の拡張工事に着手した。その結果、城郭の中心が西方に移り、 天神山 に本丸を置き、旧岡村付近(現西丸跡下から東北方に延びる尾根)に家老等上級家臣の屋敷地を設け、大手門を滑瀬から登った旧滑瀬口とした。この滑瀬口は島津軍の猛攻を撃退した縁起のよい城門でもある。なお、現在の大手門(跡)は慶長18年(1613)に西向きに築き直したものである。また後に旧岡村北方の近戸谷に向って近戸門を開いた。こうして岡城は3か所の城門ができ、中世の大手門だった下原門は 搦手(からめて)門になった(『 中川史料集 』)。新大手門を出て、崖に沿った坂道を滑瀬(十川)川畔に下ると、そこに橋脚用の石垣道が残っている。この橋脚に、上出の古河古松軒の文中の「はね橋」が掛けられていたと考えられる。この橋の様子は 田能村 竹田(ちくでん) の養子となった 田能村 直入(ちょくにゅう) が後年描いた 岡城絵図 がよく伝えてくれている。もっとも同図の橋は 跳(は)ね橋ではないが。なお秀成は桜馬場に仮殿舎ができるとここに移り、それまで居住していた東郭の志賀親次の旧館を家老の中川平右衛門に与えた。こうして城普請は慶長元年(1696)に一応完了した。なお西の丸に殿舎が建てられたのは3代 久清(ひさきよ) の時代で、寛文4年(1664)だった。初期の城郭の規模は知りえないが、江戸中期の明和8年(1771)の 火災 後、幕府に報告した焼失届によると、本丸 二の丸 三の丸 外 曲輪(くるわ)に 櫓(やぐら)をはじめ数多くの建物があったことを知りうる。岡城のいわゆる天守閣は三重櫓で、本丸南隅の石垣上にあった。そして西南隅には二重櫓(再建された時は小三重櫓となった)、東隅(現天満社の位置)には金倉があり、本丸中央部には藩主の邸宅を中心とした殿舎があった。二の丸は本丸の北側に突き出した一段低い場所にあった。二の丸は 内向(うちむき)対面のための殿舎が中心で、山吹の間 吉野の間 梅の間 老松の間 諸士着座の間 近習詰所の間等々20余の間があり、北隅の高い石垣上に二重櫓のいわゆる 月見(つきみ)櫓があった。三の丸は本丸南側にあり、藩主が家臣と対面を行う場に使われた殿舎だった。そして西隅に弓櫓、南の三の丸入口に大鼓櫓門があった。岡城の西の丸は、本丸 二の丸 三の丸が手狭になったために作られた殿舎だったとみられている。
〈西の丸北側尾根に見られる願成院石仏〉
 元和4年(1618)、西の丸北側に延びる尾根に 願成院 と 愛宕(あたご)神社 が建立された。その後、願成院には幾つかの堂が建てられたが、その願成院跡の巨岩に線彫の 磨崖(まがい)石仏 がみられる。願成院創建当時、岡城の武運長久を祈願して彫ったものであろう(豊田寛三『史跡岡城跡』、橋本操六「豊薩合戦と大友氏の滅亡」『大分県史』中世篇V、佐藤満洋「岡藩」『大分県史』近世篇T)。
[佐藤 満洋]

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