岡田代官 ( おかだだいかん)

親子四代の代官職

〈親子四代にわたる岡田代官〉
 元禄11年7月天領となった宇佐郡 下毛郡のうち5万1,000石の最初の代官として、翌年4月宇佐郡四日市に着任、 四日市陣屋 を創建した代官で15年間在任したのが、 岡田庄太夫 俊陳(としのぶ) である。俊陳が転任した正徳3年(1713)に、その支配地は日田代官所付きと天草代官所付きとに二分されるが、その翌年には全部 日田代官 の支配下におかれた。初代の 四日市代官 岡田俊陳の子が、岡田庄太夫 俊惟(としただ) である。俊惟は日田代官として享保19年(1734)から宝暦4年(1754)まで20年間在任。幕府の年貢増徴策を忠実に、かつ強力に実行し勘定吟味役に栄進した。その跡をついで日田代官となったのが俊惟の長男九郎左衛門 俊博(としひろ) で、宝暦4年から同8年まで4年間在任して、これまた勘定吟味に転じた。その弟で 揖斐(いび)家 に養子に入った十太夫 政俊(まさとし)が兄俊博の跡をうけて宝暦8年日田代官となり、明和4年(1767)日田で最初の 西国筋郡代 に昇任した。在任14年で明和9年(1772)4月29日病死した。
〈岡田俊惟の年貢増徴強行〉
  享保の改革 の方針に忠実にしたがって年貢増徴を強行するため、田畑の切添(拡張開墾)を見つけて 年貢 をかけ、 定免(じょうめん) を更新するたびに増免(年貢率を増すこと)をおこなった。日田郡渡里村の場合延享2年には、田高免が7ツ8分8厘7毛、畑高免5ツ1分1厘3毛となっている。これは米の生産高の7割8分8厘7毛を年貢として取り立てることになる。また畑の場合は大豆の5割1分1厘3毛を年貢にとることにして、これを銀納させたのである。また、支配下の村々にある 永荒(えいあれ) といって耕作できない場所を、その面積と共に絵地図に記入して出させ、その開墾を強く指示し、いつまで開墾できるかの見とおしを書かせて提出させた。日田郡北内河野 南内河野村の当時(延享2年)の地図の 控(ひかえ)で、それを知ることができる。但し開墾できない永荒は、その旨をはっきり書いている。新田畑として年貢を課していた部分の 米 大豆 の生産高を村高に加えた。渡里村の場合それまで144石4斗9升5合であった村高を延享4年(1745)10月の年貢割付状から148石1斗6升1合に増加している。この村高は幕末まで存続している。村高を基準にして課する六尺給 御伝馬宿入用 御蔵前入用のような附加税は、村高が多くなると少しではあるが増加するのである。
〈助合石(穀)と助合石代銀〉
 正規の年貢の他に寛保元年(1741)から5年間、支配下の村々の農民からその富に応じて米 雑穀などを取り集めた。これを 助合穀(たすけあいこく) と云い其の集まったものを延享2年に入札させて売り上げたお金を助合石(穀)銀と呼んだ。この助合穀銀を 豆田 隈 両町の 掛屋(かけや) や 御用達 などの商人に預けて利子を取り、元利の増大をはかった。俊惟代官の時には、その額が銀85貫であったのが後には629貫に達するほど増加した。これらの助合穀銀の内相当額が無利息で10年間で返却するという条件で、困った村々や個人に貸し出されておるので、後の時代の百姓で恩恵を受けた者が相当あった。しかし俊惟代官の時代には、助合石は年貢外の負担であり、凶年が続いたので農民にとっては不満であった。利息をとってではあるが商人に貸しても農民には貸してもらえなかった。日田郡城内筋の村々や玖珠郡の村を加えた12か村の630余人が 穴井六郎右衛門 らに託した訴状で岡田代官の悪政を数え上げて、救済を江戸幕府に直訴した事件が起きた。差し出した訴状に名を連ねた 庄屋 組頭 農民は代官所に呼出され酷しい取り調べを受けた。その結果延享3年12月16日幕府の命令で、江戸に直訴した穴井六郎右衛門 次男要助、馬原村草三郎の組頭惣次らは獄門と死罪、他の者たちは、田畑屋敷取り上げ所払 田畑取り上げ所払 過料銭(額に多少あり)、その上に手錠30日、 叱(しか)り等の刑を受けた。参加しなかった村々の庄屋は恩賞にあずかった。これを 馬原(まばる)騒動 という。 襖(ふすま)の下張りから出てきた楽水(揖斐十太夫の俳号)の書いた文によれば、俊惟は和歌のたしなみもあり、また謡曲特に「野宮」を好んで謡っていたとのこと。なお俊惟の年貢増徴策は九郎左衛門俊博、 揖斐十太夫政俊 に受けつがれ、俊惟の場合よりも高い免になっている。田高免は九郎左衛門の宝暦5年には8ツ3厘8毛、揖斐十太夫の宝暦10年には8ツ1分5厘8毛に達している。岡田俊惟代官によって始められた助合石代銀の取り立ては、揖斐十大夫によってもおこなわれ、公金貸し付け政策も俊博 政俊に引きつがれた。
 揖斐政俊につづく郡代冨次郎 俊(ゆきとし) (安永元〜6年) 靭負政喬(ゆきえまさたか) (安永6〜天明6年)←兄弟、政喬の養子造酒助政恒(天明6〜寛政5年)も政俊の年貢増徴策 公金貸し付け政策をうけついだ。政恒は 俊時代の不正事件で郡代罷免、揖斐家の支配は4代35年で終わる。
 参考文献 藤野保編『九州と天領』
[首藤 助四郎]

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