岡藩 ( おかはん)

大友氏の旧臣を千石庄屋に任命

  播磨(はりま)国(兵庫県)三木城主 中川 秀成(ひでなり) は、文禄2年(1593)11月、 豊臣秀吉 から豊後国岡6万6千石に転封を次のように命じられた。「その方事、来春豊後へ遣わされ候、しかれば家来は 悉(ことごと)く召し連れ 罷越(まかりこす)べく候」「豊後国直入群二万九千三十八石、同大野郡内三万六千九百六十二石、都合六万六千石の事、扶助せしめ (おわんぬ)。まったく領地すべし。此の内一万六千石無役、五万石を以て軍役相勤むべく候也」。前者が転封命令、後者が領知高を示すものである(原文は漢文体)。
〈岡藩6万6千石から7万石へ〉
 秀吉の「一万六千石無役、五万石を以て軍役」の文言は、織田信長や秀吉などの発給した中世の所領宛行の特色である。1万6千石は 中川氏 の台所入分、すなわち領国経営費、5万石で豊臣政権への軍役奉仕を命じたものである。これだけなら兵力は1,250人(1万石につき250人)でしかないが、実は、秀吉は別に中川氏に兵員を与えた。それは旧 大友氏 の重臣 田原 紹忍(じょうにん) に 柏原(かしわばる)郷 (荻町)と 松本村 (竹田市)2,913石余、 宗方(むなかた) 掃部(かもん) に 葎原(むぐらばる)郷 (荻町)1,850石余を与えて、中川氏の 与力(よりき)として配した。このため田原 宗方両将の兵力も中川氏の指揮下にはいるものだった。中川氏は岡入部の文禄3年8月、大分郡 今 (つる)(津留)村 460余石を船着場として、また直入郡東北部の 阿蘇野 名(みょう) 969石余と 田北郷 2,866石余を預地としてそれぞれ支配することになった。そして今 村から今市を経て竹田に至る大坂参勤の道の整備を行った。 岡藩 の記録である「 地方温故集 」と「 御覧帳細注 」は、藩領域について次のように記している。「久住 白丹(しらに)、先年御領分にてこれ有候ところ、葎原組と御替地に相成り候段、申し伝えもこれ有候えども、たしかなる儀相知れず、田北郷も先年御領分にてこれ有り候由、申し伝え候えども、いか様の訳にて御料に相成候や、相知れず」と。両記録とも後年の成立のため、上記の領域の変更のいきさつを知りえなかったものと考えられるが、実は次のような事情があった。すなわち、慶長5年(1600)の 関ヶ原の戦い で、肥後の 加藤 清正(きよまさ) は東軍の徳川家康方に組して、翌6年恩賞として肥後1国が与えられることになった。しかし清正は天草の地を辞退し、代わりに瀬戸内への道として豊後国内に2万余石を望んだ。その結果、佐賀関 鶴崎 野津原 久住 白丹の地が与えられた。しかし久住 白丹は岡領であるためその替地が必要となった。また関ヶ原に呼応して戦われた別府 石垣原の戦い では、中川氏の与力田原 宗方両将は独断で旧主 大友 義統(よしむね) の軍に馳せ参じ、戦死したため両将の所領は一旦、徳川家康から没収された。そして清正に与えられた久住 白丹の替地として田原 宗方両将の旧領と、中川氏の領地の内阿蘇野名が岡領になり、田北郷は徳川氏の直轄地( 天領 )となった。さらに翌7年、若干の領地交換が行われた結果、岡領7万石が成立したのである。7万石の領域を現在の市町村別に見ると、岡城を中心に竹田市 直入郡荻町 久住町 都野(みやこの) 直入町長湯 大分郡庄内町阿蘇野 野津原町 今市(いまいち) 大野郡朝地町 清川村 緒方町 大野町 千歳村 三重町西部 犬飼町と豊後南西部に位置し、飛地として大分市三佐 海原 葛木(一部) 秋岡 仲村の地域が岡領だった。
〈岡領三佐港と犬飼港を結ぶ大野川通船〉
 元和元年(1623)、越前国(福井県) 北庄(きたのしょう)から 松平 忠直(ただなお) ( 一伯(いっぱく))が豊後に配流されたのにともない、中川氏は船着場の今 を幕府に返上して 大野川 川口の三佐に船着場を移すことを命じられた。中川氏は 三佐港 の整備を行うとともに御座船 住吉丸 の船蔵建築を行い、御茶屋を中心とした三佐町の建設を行った。その後、大野川の分流 乙津川 をさかのぼり、さらに大野川本流にでて犬飼まで川船を通す、いわゆる 大野川通船 を始めた。 犬飼港 と町が整備されたのは明暦2年(1656)である。以来、中川氏の 参勤交代 のコースは従来通り 肥後街道 を通るコースと、竹田から大野郡を通って犬飼に出、犬飼から川船に乗って三佐まで下り、住吉丸に乗り替えて大坂に向う2つのコースができた。犬飼港は岡領内の 年貢米 大豆 等の集積、大坂への積出し基地となり、また領内への必需品搬入の基地となり、まさに岡藩の台所的役割りを果たすことになった。
〈千石庄屋制から大庄屋制へ〉
 中川氏は領国支配機構として領内を53組に分け(後に69組に増加)、各組に 千石庄屋 と数人の 小庄屋 を任命して、末端支配機構を整えた。千石庄屋と小庄屋は大友氏旧臣などの 村方(むらかた)での人望を有する豪族を配して、人心の掌握をはかった。そして藩の支配体制が整うと宝永3年(1706)に、千石庄屋制を廃して大庄屋制とし、庄屋層への藩の支配力を強めるとともに、 大庄屋 の支配する組を4〜5組単位に「 五ヵ組 」(四ヵ組)を編成、藩の支配組織が完備し、幕末までこの体制が続いた(佐藤満洋「岡藩」『大分県史』近世篇T)。
[佐藤 満洋]

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