岡本主米 ( おかもとしゅめ)
府内藩の救世主
1806−1878 府内藩 家老。8代藩主 松平 近訓(ちかくに) 、9代 近信(ちかのぶ) 、10代 近説(ちかよし) に仕えた。主米は同藩士増田茂太夫久籌の五男として生まれ、岡本主米安尊の女婿となる。岡本家は藩主 松平( 大給(おぎゅう))家 の三河以来譜代の家臣で、代々家老職を勤める。幼名五郎 雄之助、名は安宅 主米、字は 安展(やすのぶ)、のちに松翁と号した。文政2年(1819)近訓に初御目見、同6年御小姓、天保4年(1833)家督250石を相続、列座仰せ付られ翌5年主米と改名、同11年2月24日家老職を仰せ付られる。
〈自主再建による 藩政改革 を主張〉
藩では、文政2年藩主近訓の父 不騫(ふけん) (7代 近儔(ちかとも) )が後見役として、大坂銀主に頼った財政改革 天保8年在地銀主による改革も失敗、藩財政は窮迫を極めた。同11年藩主近信は身命をかけて改革を期し、家老 落合藤右衛門 を江戸へ、同 津久井四郎右衛門 を上坂させた。国元でこの難局を預かったのは家老に就任したばかりの35歳の主米である。江戸 大坂 府内でそれぞれ改革案が企画された。主米は日田の 博多屋久兵衛 の協力により、借財の一時棚上げ、15,000石の年貢米収入による「 手賄(てまかない)」仕法を同年7月、家中一同の支持を得て、藩主近信の下知をまたずに始めようとした。しかし、近信は、大坂銀主に全面委託することにし国元の改革案は否決された。主米は同年12月役柄不似合として家老職召し上げ 列座に降格「 慎(つつしみ)」を受け、翌年8月には100石削減 隠居 蟄居(ちっきょ)を命じられ、嫡子友八(安茂のち安宅、じつは妻の弟 養父安尊の嫡男)に150石廊下橋番入りが命じられた。他の藩士にも「 差控(さしひかえ)」が命じられ大坂銀主改革案を不承知の者は「勝手仕第暇を取るべし」と達せられた。しかし主米はその職を去る前に久兵衛よりの借財は返済した。久兵衛はその信義の深さに感激したという。
〈広瀬久兵衛の登用で藩政改革に成功〉
大坂銀主依存の改革は失敗し、藩主近信は同12年8月死去、養子近説が10代藩主となる。そこで藩政の実権は閑山(8代近訓)に移り、藩政改革を決意した閑山は江戸石原の屋敷を売り払い同年11月末に帰国した。当時の情况は江戸 大坂 国元での借財20万両、不融通の 銀札 18,000両、それに対し手持の米はわずか2,000石にすぎなかった。閑山は主米に隠居料100石を与え家禄を元に戻し「御雇家老」として復職させ改革に踏みきった。主米は直ちに 広瀬久兵衛 を招き「米金の 繰巻(くりまき)ならびに銀札場 莚会所取計い向き」を公式に全面委任し、久兵衛の改革方針に藩内一統すべての係が絶対に従う体制を作り、江戸表の勘定も国元の支配下においた。同13年2月「五ケ年季御手賄仕法」が立てられ、4月15日から8日間家老主米はじめ用人以下17名が領内廻村「上下一統正路の改革」「永久安心の改革」であると、その主旨を徹底させ5年の改革期間中の耐乏を求めた。「 手賄仕法 」では、藩の借財の返済 銀札の現金引き換は一時棚上げ、すべての支出は年貢米で賄う。「備方」を設立し、その資金運用利益で借財返済 銀札の回収を行うとした。そこで年貢収納15,000石確保のため 定免(じょうめん)制 を施行、「 備方(そなえかた)」資金として、庄屋の役料の借り上げ、村高1石につき5升の献米(五升掛り)、町人 藩士からの献金などで合計銀399貫余を得、また不融通の銀札にかえて 日田金(ひたがね) 借り入れを保証に 莚(むしろ)預かり切手 に加印した加印切手を発行流通させた。なお、改善の積極策として 莚 専売制 を再興し、 青莚(せいえん) の増産と 会所(かいしょ) への全量集荷 問屋直送り(大坂送り、弘化3年(1846)より江戸送り)体制を確立。莚会所の利益は天保14年より文久元年(1861)まで18年間で31,300余両が藩庫に収納された。また 櫨(はぜ)や 楮(こうぞ)の植え付けを奨励し、弘化2年には育成の手引書「農家徳益 弁書(わきまえがき)」を下げ渡し、家老主米自身が金谷迫村中原に櫨畑2町歩を、家臣にも櫨畑仕立を奨励している。改革当初20万両といわれた借財は 廃藩置県 のとき9万余円(両)となっている。
当初五ケ年季改革の終わりの弘化4年、主米は100石加増350石(天保14年12月旧知250石復元)、久兵衛には永々200石 知行(ちぎょう)の恩賞があったが両人ともに辞退。しかし、嘉永元年(1848)改革が一応の成果をあげ閑山が江戸へ戻る際、主米へ50石加増 代々家老役、久兵衛へは時計 小袖 三十人 扶持(ふち)が与えられ銀札 青莚両会所「永々世話」が委任された。主米は家老引退後も相談相手 大年寄 大老として藩政全般を取り仕切った。隠居後は松翁と号し、養老扶持50石高を新開地中原に与えられた。
以前に天然痘流行により2人の娘をなくしたことから、主米は種痘の重要性を認識し嘉永2年藩医堀恕 にはかり、子息英太郎、恕 の孫ら3人に種痘を行った。これは藩としての種痘施術の最初であった。また主米は私日記に毎日気温(華氏)を克明に記録している。科学的素養関心も深かったのであろう。
明治11年(1878)7月13日、73歳で没、浄安寺に葬られる。のち上野公園墓地に改葬。法名顕忠院殿仁誉義山松翁大居士。
参考文献 『大分市史』中巻
[赤峯 重信]
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