小笠原氏 ( おがさわらし)

九州譜代大名の要

 近世豊前中津を領した大名で、 細川氏 の後、入部してきたのが小笠原氏である。 小笠原 秀政(ひでまさ) が、徳川家康の長男 信康(のぶやす)の娘とくを正室として迎えたり、 関ヶ原の戦い 、大阪夏の陣などで活躍し、領地の転封 加増を受け、小笠原氏は、 譜代大名 に成長していく。大阪夏の陣後 外様大名 の勢力が強い九州に、「九州の 要(かなめ)」(「能見御家御由帳」)として寛永9年(1632)徳川氏は、小笠原一族を次のように九州に配置している。
 小倉15万石―小笠原忠真、中津8万石― 小笠原 長次(ながつぐ) 、杵築4万石― 小笠原 忠知(ただとも) 、 龍王(りゅうおう)( 安心院(あじむ)町)― 松平 重直(しげなお) (忠真の弟、松平家へ養子)。旧細川藩領を小笠原氏一族で分領することとなったわけである。
〈出目〉
 小笠原氏は、源 義家(よしいえ)の弟 義光(よしみつ)の 後裔(こうえい)で甲斐源氏加賀美遠光の二男 長清(ながきよ)が、甲斐国巨摩郡小笠原村に住み、小笠原を姓としたのに始まる。鎌倉〜室町時代には、阿波国や信濃国の守護を勤め、長時には、武田信玄に敗れ、その子貞慶は、天正10年(1582)家康の信濃攻めに参画し、家康から深志(長野県松本市)をあてがわれ、その後豊臣秀吉、家康に仕え、下総古河(千葉県 茨城県)、飯田5万石(長野県)、明石10万石など転封し、九州にやってきた。
〈著名な藩主とその事績〉
【小笠原長次】1615−1666 小笠原秀政の長子 忠脩(ただなが) の嫡子。父が大阪夏の陣で戦死した後、叔父忠真に養育され、寛永3年11歳で龍野(兵庫県龍野市)6万石を与えられる。寛永9年忠直らと豊前に入部、本拠地を中津に置く。 島原の乱 に鎮圧のため出兵し、その功績により日田6万石の 代官 になる。長次は、中津入部後、細川氏の 手永(てなが)制度 を改廃し、村組制を採用している。 宇佐神宮 大貞(おおさだ)八幡 (中津市) 古表(こひょう)八幡 (福岡県吉富町) 羅漢寺(らかんじ) 善光寺(ぜんこうじ) などに土地を寄付している。承応元年中津城下町に山国川の水を高瀬(中津市)で取水し石 樋(ひ)で 水道 を引かせている。正保3年(1646)には、農村の立て直しのため宇佐郡の 西谷池 清水池 小倉池 などの新池工事や 新田開発 を行っている。また、承応元年(1652)天領の日田郡の村出入りの一件、万治3年(1660)宇佐神宮領の 大宮司(だいぐうじ) 家の 宮成氏 と 到津(いとうづ)氏 との争いごとなどを幕府にまかせ、それぞれの管理権を放棄するなど、彼の「性易簡にして煩雑を好まず」の性格がよく出ている事件である。
【 小笠原 長勝(ながかつ) 】1646−1682 長次の2男、中津2代藩主。兄 長章(ながあき) が病身であり父の遺言もあり、寛文6年(1666)家督を継ぐ。同年8月、島原城(長崎県島原市)受け取りの使としての功により、天領の豊後高田組2万800石を預けられる。彼は、うつ病であったらしく、病気静養の目的のために豪華な別荘(部屋数48、三層の楼閣)を上毛郡辛子村(福岡県吉富町)に建て、運営に1日銀3,000貫を費やすなど、藩財政を圧迫し 参勤交代 の費用さえ出せない状況に追いこんでいった。そのため、財政立て直しのために、 岩波源三郎 を登用し、「 岩波の新法 」と呼ばれる厳しい財政改革が行われる。
【 小笠原 長胤(ながたね) 】1668−1709 長次の嫡子長章の長男。長勝の後を受け、天和3年(1683)〜元禄11年(1698)の間、 中津藩 3代目藩主をつとめる。初期のころは、藩財政の立て直しに努力し、貞享3年(1686)には、 荒瀬井路 の工事を初めている。この井路は、藩内の農業生産には貢献したが、 莫大(ばくだい)な費用をかけたため藩の財政を圧迫、悪化させた。後半、家臣団の内部対立の激化、元禄7年中津城下火災の復旧工事の夫役負担による困窮、餓死者の続出、長胤の乱行も重なって、元禄11年7月、幕府から領地8万石は没収され、長胤は小倉小笠原家へ預かりの身となった。
【 小笠原 長円(ながのぶ) 】1676−1713 長胤の弟で、長胤が領地を没収された後、「祖先の勤労」(「徳川実記」)により、下毛 宇佐2郡4万石の城主として中津小笠原藩4代目となる。財政立て直しのための 苛政(かせい)により 越訴一揆(おっそいっき) が起きたりしている。元禄15年9月には、 中津札 の発行をしている。彼もうつ病で乱行の末38歳で病死した。
【 小笠原 長 (ながさと) 】1710−1716 長円の長子、長円病没後わずか4歳で藩主となる。幼年のため家臣団が内紛を起こしている。7歳で病死したため、継嗣がなく領地は没収され、中津小笠原藩は消滅した。
【小笠原忠知】1598−1663 忠脩の3男。寛永9年(1632)細川氏が肥後転封時、杵築城代松井家が八代に移り、その後杵築領主として入部。領内の海岸に松を植えたり、美濃崎(杵築市)に燈台を作ったと伝えられている。
【松平重直】1601−1643 忠脩の4男。 能見(の(う)み)松平 (後、 杵築藩主 )の養子となり、 龍王城主 (安心院町)となる。彼の死後長男 英親(ひでちか) が 杵築城主 となる。
[佐藤 香代]

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