緒方惟栄 ( おがたこれよし)

源平合戦の悲劇の英雄

 ?−1181〜1191−? 平安末期から鎌倉初期にかけての豊後の武将。緒方三郎。生没年未詳。伝説的に著名な 姥岳(うばだけ)( 祖母嶽(そぼだけ))(高千穂とも)大明神の 神裔(しんえい)とされる 大神惟基(おおがこれもと) ( 胝大太(あかがりだいた) 皸大弥太(あかぎれだいやた))5代の孫という。大野郡 緒方荘司 。平 重盛(しげもり)家人。平家の大宰府追い落し、 源範頼(みなもとののりより) 軍の渡海援助等の大功を立てながら、 宇佐宮焼き打ち 、 源 義経(よしつね) 先導で捕えられ沼田荘 配流(はいる)。 赦(ゆる)されて帰国するというが 顛末(てんまつ)未詳。
〈出自に関する諸説〉
  大神 良臣(よしおみ) 説 仁和2年(886)大神良臣が 豊後守 となり、善政により百姓が 惜慕(せきぼ)して 重任(ちょうにん)を求めたので、子 庶幾(これちか) を留め大野郡領とした。その子が大神惟基、母は藤原 伊周(これちか)の娘 花之本(はなのもと)姫という。また母は堀川大納言、あるいは 枇把(びわ)左大臣の娘( 華本(はなのもと))とするものもある。
  宇佐大神氏 説 中野幡能の提唱した説。 宇佐神宮 内で 宇佐氏 と 大神氏 が 大宮司職(だいぐうじしき) を争い、11世紀半ばころ以後宇佐氏が失地を回復して大宮司職を独占する。敗れた大神氏庶家が宮外の 宇佐宮領荘園 に出て土着。 速見大神氏 や 大野大神氏 等がこれで、大神惟基が 豊後大神氏 の祖。彼等が 日羅(にちら) 信仰を興し、県中南部の 石仏文化 を残した。
  新大神良臣説 宇佐大神氏説に対し、松岡実が更に新説を出した。大和三輪の「 三輪高宮家系 」によると、宇佐大神氏と豊後大神氏は同系であるが、宇佐大神氏は 大神 比義(ひぎ) から出るのに対し、大神良臣はその兄 特牛(ことい) の後で別系である。良臣子庶幾が大野郡領 塩田大夫とあり、その子 諸任(もろとう) が大弥太とありこれは伝説の惟基に当たる。以上によると、宇佐大神氏と豊後大神氏は別系で、直接大和から豊後に下向したもの、というのである。興味ある新説であるが、尚問題点もあり今後の検討が必要。
〈惟栄挙兵と平家追い落とし〉
 「 大神氏系図 」によると、惟栄の兄に 臼杵 惟隆(これたか) 、弟に 佐賀 惟憲(これのり) がおり、なお妹は 日田郡 大領(たいりょう) (郡司長官) 大蔵永平(おおくらながひら) に嫁ぎ 永宗(ながむね) を生む。養和元年(1181)2月、肥後 菊池 隆直(たかなお) と反平家の兵を挙げたが、平家は 大宰少弐(だざいのしょうに) 原田 種直(たねなお) に命じ反撃、平 貞能(さだよし)を肥後守に任じ討伐させたため隆直は降伏。惟栄は屈せず 知行国主(ちぎょうこくしゅ) 藤原 頼輔(よりすけ) の 目代(もくだい)を追い出した。頼輔は子 頼経(よりつね) を代官として院の命令として平家追討を説得、反平家で一致した惟栄はこれを受け入れた。寿永元年(1183)8月、平家が都落ちして 大宰府 に着くや、兵を北道 中道 南道に区署し、三方から大宰府を攻略。中道は親類 日田(大蔵) 永秀(ながひで) (永宗子)、北道は兄臼杵惟隆が豊前から筑前三笠郡に、主力惟栄は南道で肥後→筑後を 迂回(うかい)して、大宰府を攻めた。平家方は筑後 竹野本荘(たかのほんしょう)に主力を向けて惟栄軍を防いだが敗れ(『 平家物語 』)、原田種直 山鹿秀遠(やまがひでとお) らに守られ、大宰府を落ち秀遠の 山鹿(やまが)城 (遠賀郡)に入る。しかし惟栄軍の追撃におびえ、豊前 柳浦(やなぎがうら)( 企救(きく)郡)に移り 内裏(だいり)造営を企てたが、長門方面の源軍来攻を恐れ讃岐屋島に遷った。
〈宇佐宮焼き打ち〉
 京都では木曽 義仲(よしなか)のクーデターから、粟津(近江)敗死等の政変があり、平家は勢力をもり反した。この間惟栄は伊予 河野通信(こうのみちのぶ) と協力、備前 邑久(おおく)郡の 今木(いまき)城 を攻略。元暦元年(1184)7月6日惟栄兄弟は宇佐宮焼き打ちの前代未聞の大事件を起こした。治承4年(1180)緒方荘 上分米(じょうぶんまい)以下 済物(さいもつ)を怠ったため、大宮司 公通(きみみち) が 弁官(べんかん) 田部妙盛(たんべただもり) を派し問責したのを怨み、公通ら殺害のため乱入したと(「 元暦文治記(げんりゃくぶんじき) 」)。平家一辺倒の公通に対する反感、平家治下で疎外された事に対する怒りの爆発か。しかしこれが 朝野(ちょうや)の大問題となり、彼の没落の原因となった。
〈兵船八十二 艘(そう)と義経先導〉
 元暦元年秋 源 頼朝(よりとも) の平家討伐の体制が整い、9月範頼は九州平定のため京都を発つが、同年冬周防で寒気と兵糧難に悩まされた上、九州渡海の兵船がなく進退窮した。この時豊後 国衙(こくが) の船所等を支配する緒方惟栄が、翌年2月82艘の兵船を調達して範頼軍の渡海を援け、平家残党平定に大功を立てた。平家討伐後頼朝 義経兄弟の仲が悪化すると、 後白河院(ごしらかわいん) は義経を九州に下す事とし、惟栄の海軍力に目をつけ、義経先導を命じた。その仲介者は 国司(こくし)藤原頼経で、惟栄らは配流の 官符(かんぷ)が下ったが、10月特赦された。11月3日惟栄は義経を先導京都を発ったが、6日 大物浦(だいもつうら)で乗船し、疾風にあい難破して頼朝軍に捕えられ、鎌倉に下された。
〈上州沼田荘配流〉
 文治2年(1186)11月9日惟栄は上野国沼田荘に流罪、臼杵惟隆 佐賀惟憲も没官配流となるが配処未詳。惟栄は後赦され帰国するというが、顛末未詳。頼朝は前年12月豊後を 関東 御分国(ごぶんこく) とするが、間もなく解除。
 参考文献 『平家物語』 『源平盛衰記』 渡辺澄夫『源平の雄緒方惟栄』
[渡辺 澄夫]

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