緒方荘 ( おがたのしょう)
緒方三郎惟栄の本貫地
大野川の支流 緒方川 奥嶽川 の流域に位置し、大野郡の西南部を占める。 宇佐八幡宮 の「 十箇郷三箇庄 」の一つ。古代、大野郡は豊前 豊後 日向の3国に置かれた「 三国七郡 御封(みふう) 」の一つであり、「 宇佐宮神領大鏡 」には「大野郡伍拾烟 緒方庄是也」という注記があり、緒方荘はこの大野郡の 封戸(ふこ)が 荘園 化したものと考えられる。荘内に、 大行事(だいぎょうじ)八幡 をはじめとして、各村々には、八幡が鎮座しているがこれも宇佐八幡とのかかわりを示すものであろう。
〈緒方荘司 緒方 惟栄(これよし)〉
治承(じしょう) 寿永(じゅえい)の内乱 で活躍した 緒方惟栄 は当荘の荘司といわれる。緒方氏は大野郡 大分郡 海部郡に広がる 大神(おおが)諸氏 阿南(あなん) 稙田(わさだ) 大野 臼杵 佐賀 賀来(かく) などの同族であり、宇佐八幡の神官 大神氏 が 宇佐氏 との抗争に破れ、大野郡へ進出し土着したとも、9世紀末に豊後に赴任した 大神 良臣(よしおみ) の子で 大野郡領 となった 庶幾(これちか) の子孫ともいう。惟栄はもともとは平家の平 資盛(すけもり)の家人であったが、九州では逸速く豊後国の武士を組織し、源氏方に 与同(よどう)し、 大宰府 に入った平家を攻撃し、九州にとどまることを諦めさせた。その後、平家方に付いた 宇佐 大宮司(だいぐうじ) を攻めるため、豊前宇佐郡に侵攻し、宇佐宮に焼き打ちをかけ、不評をかった。さらに、 義経(よしつね)と 頼朝(よりとも)の対立後は、義経の京都脱出に手を貸したため、頼朝の怒りをかい、 臼杵 惟隆(これたか) 佐賀 惟憲(これのり) らの兄弟とともに上野国沼田荘に流された。緒方町の上自在には、惟栄の館跡といわれる場所があるが、確かなことはわからない。また、 緒方三社八幡 は、かれの 勧請(かんじょう)になるともいわれる。
〈大友総領家の所領となる〉
「宇佐宮神領大鏡」では、田数240町、 佃(つくだ)18町9反、余田110町、建久図田帳では300余町、「弘安図田帳」では280町とあり、地頭は 大友 頼泰(よりやす) となっている。緒方氏の没落後、その旧領は没収となり、その段階で「 弘安 図田帳(ずでんちょう) 」に見えるように大友氏領となったと考えられる。同じく緒方惟栄と同族の 大野 泰基(やすもと) は建久7年(1196)ころに反乱を企て、その所領の大野郡一帯は没収となり、 大友 能直(よしなお) が地頭となったことから見て、緒方荘も鎌倉初期には大友氏の所領となった可能性が高い。以後、貞治3年の 大友 氏時(うじとき) 所領目録、永徳3年の 大友 親世(ちかよ) 所領目録などに当荘の名が見えるので、鎌倉時代から室町時代と一貫して大友惣領家の所領であった。
緒方荘内の名としては、天正5年の緒方荘間別調注文には、緒方荘300町として原尻名 広貞名 軸丸名 耳志野(みみしの)名 日小田名 河宇田 知田(ちた)名 久土知(くとち)名 野中名 徳丸名 打越名 馬背戸(ませど)名 小川名 宇田枝名 上自在名、深草野村 庄内村 正用村などの名や村が記されている。このうち、直納分として小川名80町(役所 戸次(べっき)左京入道)、宇田枝名7町(役所臼杵新介入道)、知田名100貫(領内志賀民部大夫)、上自在名25貫(領内志賀甚介)、耳志野名70貫(役所 朽網(くたみ)兵部入道)、耳志野名のうち10貫(領内朽網兵部入道)があり、大友氏の一族 同紋衆 などが 直納(じきのう)分を抑えていた。また、大友氏が室町時代〜戦国時代には領国統治の基盤として、各荘や郷といった単位所領ごとに置いた 政所(まんどころ) が2名が配されており、 久保氏 や 原尻氏 などが任じられている。
緒方荘の範囲は、天正5年の注文からすると、宇田枝名 日小田名などが現清川村のうちに比定され、残りの名はほとんど現緒方町の中に比定地が存在する。したがって、緒方町の全域と清川村の一部がその範囲であったと思われる。
[飯沼 賢司]
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