沖の浜 ( おきのはま)
沖の浜の瓜生島説は誤り
〈重要港湾沖の浜〉
豊後の港で史料上確認できるのは、 国崎(くにさき) 坂門(さかと) 勢家 乙津 沖の浜のほか、16世紀末の ポルトガル船 アジア諸国航海路程記集に蒲江 臼杵 佐賀関 沖の浜 日出(ひじ)などがみえる。この内の沖の浜が 大友 宗麟(そうりん) の国際交流上重要な港であったことは、県民にもあまり理解されていない。その原因は、宗麟の貿易港は 神宮寺浦 ( 春日浦 )という俗説が定着していること、慶長元年(1596) 閏(うるう)7月の大 地震 で消失した沖の浜が、元禄12年(1699)以降は 戸倉 貞則(さだのり) が聞書した想像上の島「 瓜生島(うりゅうじま) 」に置きかえられたことにより、虚構と史実が混同し、加えて地震学者による「瓜生島地震」説によって沖の浜が忘れ去られたためであるといえよう。史料にみえる沖の浜は、まず宗麟16歳当時(天文14年、1545)の回顧談には、「府内に近い港」とあり、外国船入港の事実を伝えている。続いて、弘治元年(1555)来豊し、同3年帰国した中国人 鄭舜功(ていしゅんこう) が著した「 日本一鑑 」には「 澳浜(おきはま) 」とみえる。この港から豊後の正庁 上野 館(やかた) までは5.6里(約4q)で、馬で往来できるとみえるし、港は浅く、舟底がつかえ、繋泊には堪えないという。 大友館 を中心とする約4qの範囲は、西大分 5号埋立地 4号埋立地が相当する。天正13年(1585)ころの12月8日の速見郡士 辻間弾正忠(つじまだんじょうのじょう) あて 浦上宗鉄(うらがみそうてつ) 書状には、 大善寺 浄土寺 あて山香 日差(ひさし)村(山香町)の公米を、沖の浜まで運送するよう命じている。もちろん陸送である。翌14年10月3日の 立花 左近将監(さこんのしょうげん) あて 豊臣秀吉 朱印状には四国の将兵を救援のため沖の浜に派遣したとある。このほか江戸期の 編纂(へんさん)にかかわる『 大友家文書録 』 綱文(こうぶん)中には、「沖浜往来為地震潰、沈海底、今□□」とみえる。以上の史料から、沖の浜は守護膝下にあって、外国船の入港や公米積出港として、あるいは軍勢の上陸港として利用される重要港湾であったのである。
〈沖の浜はどこか〉
文禄5年(1596)閏7月、西日本一帯は大地震に見舞われた。豊後での地震の状況を一応信頼のおける史料によって順次示してみよう。『 中川史料集 』は、「(文禄3年)8月25日、今津留御拝領、同所沖の浜御船着となる。依って太閤より御書」と綱文を立て、秀吉の朱印状を収めている(正文は神戸大学蔵)。内容は、 今 (いまづる)村 (今津留)462石5升の 運上(うんじょう) を命じたあと、「船着たるにより御代官仰せ付けられ候なり」と結んでいる。この船着は中川氏を代官に指名するほどの重要港湾であるが、綱文にみえる沖の浜かどうかを明確にはし得ない。同4年6月の柴山両賀の沖浜船奉行任命に続いて、同5年条には、「閏7月12日 或は9日ま(た12日 )暮頃より大地震、御船着沖の浜洪波上り、陥りて海となる。 溺死(できし)する者十に七.八。船奉行柴山勘兵衛重成は 稀有(けう)にして死を免る」と述べられている。これらの綱文は文政年間(1818〜30)に立てられたもので、内容は「 柴山勘兵衛日記 」等によるものと考えられる。中川家が被った被害状況を慶長6年(1601)4月16日の知行目録によってみると、今 村464石中359石余、 萩原村 844石中605石余が「地震くづれ」となっている(後述)。中川家関係の史料「 金城秘鑑 」には、中川氏の船着は最初は中島であったが、10月の大地震で海没したため慶長5年10月に今津留に船着をかえたとみえる。また「 津山氏世譜 」には、沖の浜が地震崩れとなったので、慶長元年11月に今津留を船着として拝領したという。中川氏の今 船着代官は文禄3年であるので、共に信用できない。以上、『中川史料集』からすれば、沖の浜は今津留村に存在したことになる。その船着「沖の浜」は、村の沖あいの沿岸部にあったための呼称とも考えられる。この外、「 稲葉家譜 」「 土岐家伝記 」「柴山勘兵衛日記」「津山氏世譜」「金城秘鑑」「 イエズス会 ルイジ フロア( ルイス フロイス )神父の報告」などにも沖の浜はみえるが、その場所を示唆する記述はない。
〈沖の浜を瓜生島とする 野史(やし)〉
沖の浜を「瓜生島」に置きかえる最古の野史は、前述した元禄12年に 府内藩 の戸倉貞則が古記録や古老の伝承等をもとに編述した「 豊府 聞書(ききがき) 」である。この書は、原本写本とも伝世していないが、ほぼ同内容であると推定されている「 豊府紀聞 」の写本は伝わっている。これによると、津波の状況を記した後に、「且勢家村20余町北有名瓜生島、或又云沖浜町」と、もともと「瓜生島」が存在し、別に沖浜と呼ばれていたとする。その規模は、東西36丁(4q弱)、南21丁余(約2.3q)で東西に開き、南に本町、中筋に裏町、北に新町と並ぶ街区が形成され、農 工 商 漁業に従事する住民がおよそ1,000軒に居住していたという。ほかに、 威徳寺(いとくじ) 住吉社 菅神社 蛭子社 のほか、天正年間沖の浜で没したという 嶋津 勝久(かつひさ) の居館もあったという。しかし「瓜生島之図」によれば三つの町のほか、中津村 浜町 マツサキ村 森崎村 由引村があり、南に (かんたん)港 がある。また、威徳寺は「道場」と記されているほか、神社も宇那大明神 三社天神 蛭子社 住吉社と差異があり、嶋津勝久居館も「勝久塚」となっている。ほかに、大分県発足時に仮県庁が置かれた幸松家との関係を示す「シヲガマ」が東部と中央北部にみえる。天保年間(1830〜43)「 雉城(ちじょう)雑誌 」を著した 阿部淡斎 は、同書「 瓜生島址 」の項で、「当国ノ事跡、国史野史ニ乗セ載スルモ少ナカラズト雖、此島ノ所見ナシ、唯沖ノ浜トシテ載タルモノ多シ、然ラバ沖ノ浜ト云ヲ以、本名トナスベキカ、其説爰ニ挙グ」として、「 豊臣鎮西御軍記 」「 木付(きつき)氏家譜 」「 立花家家譜 」「 豊筑乱記 」をあげている。さらに、「此島ノ所在、伝説紛々トシテ一定ナラズ、前条ニ記シタル聞書ノ説ハ、沖ノ浜町ノ住民、河田氏ガ元禄年間ノ手記シテ、其実父何某ト話説シタルモノヲ誌シタルモノニアラズ」と、出典を明示して批判している。この外、瓜生島を取り上げるものとして『 豊後国志 』(享和3、1803)、「 威徳寺由来記 」(文化年中、1804〜17)、「 豊陽古事談 」(安政4、1857)等がある。
〈瓜生島を認める近代史学〉
沖の浜町の河田某手記に始まる瓜生島は、県民性とマッチしたのか、とどまる所を知らず、近代にまで持ち込まれた。まず、明治18年(1885)の「 豊後全史 」に「豊府聞書」の内容が引きつがれ、同44年大分県発行の『 豊国小志 』で完全に認知されてしまった。以来、大正4年(1915)の『 大分市史 』、同14年の「 佐賀関史 」、昭和6年(1931)の『豊府古蹟研究』第5冊「 瓜生島研究 」もその存在を疑わず、ようやく戦後の昭和30年の『大分市史』で、史料紹介にとどめて論評を差し控えているのである。ところが、昭和63年発刊の『大分市史』では、なお瓜生島存在を信ずるかのような記述がみえる。特に、地震に関係する記述では、「瓜生島」地震という名称が各所にみえる。
〈瓜生島を信ずる地震学〉
文禄5年閏7月発生の地震に関する最初の論文は、大正5年(1916)の『 大分県気象年報 』に掲載された理学博士大森房吉の「大分県と地震 噴火」であるという。これによると、地震は閏7月9日の午後8時ころに起こり津波を伴ったとし、旧記にある瓜生島陥没は誇張にすぎるという。それは「威徳寺由来記」に「嶋八分ハ海トナリ、其後ハ嶋断ミニ崩レテ海路トナレリ」とある記事によって裏付けられ、現在の 小島はあるいは瓜生島に属していたのではないかとしている。瓜生島存在論である。次に京大地球物理研究所員理学士鈴木政達は、地震発生は閏7月12日午後4時あるいは5時ころとし、 伏見(ふしみ)大地震とは別物であるとする。さらに瓜生島が津波で洗い去られたという説は理解できず、別府湾の南壁をなしている低卑な山塊と連続したものが、後に断層によって切断され、相関的に沈降したものであり、津波によるものではないとしている。この場合も瓜生島存在論である。今村明恆元東大教授は、地震発生は閏7月12日で、9日には強震程度の地震と推定する。その理由は、9日と報じているのは「 由原(ゆすはら)宮年代略記 」だけで、山間の一神社の記録で12日発生とする多数の記録を打消すのは不適当であるとする。年代略記は、社屋の 顛倒(てんとう)を述べたあと、「又此日府中洪濤起て、府中并近辺の邑里悉成海底黄昏時分也、同慈寺本堂斗相残る、大波至三」と記す。今村は「此日」を9日とすれば大津波が地震に先んじたことになり矛盾するという。やはり瓜生島存在論である。『 日本地震史料 』は発生日閏7月12日、津波発生、瓜生島陥没と記し、『 大分県災害誌 』もこれを採用している。昭和57年3月発刊の東京大学地震研究所編『新収日本地震史料』第2巻にも、「慶長元年閏7月12日(1596 9 4)〔豊後〕薩摩 京都→、豊後府内は津波襲来、瓜生島は沈没する」とある。最も新しい平成元年11月30日国立天文台編『理科年表』には、「1596 9 4(慶長1閏7 12)33.3゚N 131.6゚E M7.0 豊後:7月3日より前震があり、閏7月11日から多発してこの日大地震。高崎山など崩れる。海水が引いた後大津波が来襲し、別府湾沿岸で被害。大分などで家屋ほとんど流失。「瓜生島」(大分の北にあった「沖ノ浜」とされる)の80%陥没し、死708という」とまとめている。ようやく補足的に沖ノ浜がみえる。
〈瓜生島非存在説の決定的史料〉
地震発生後間もないある日、 桜八幡宮 (国東町)の宮司坊権大 僧都(そうず) 豪泉(ごうせん) は、同宮宝物の 大般若経(だいはんにゃきょう)第424巻の巻末余白に「文禄五年丙申潤七月九日大地震仕、豊後興浜悉ク海 ニ 成、人畜 ニ 二千余死ス、前代未聞条書付申畢、当宮司豪泉誌之」と書き留めている。その後、尾ひれがついた噂が伝わったらしく、「亦□興ノ浜計 ニ 十万人死ト云々」と署名の上に書き加えている。豪泉56歳の時の記録である(579巻)。次の史料は地震後72年目の寛文7年(1667)のもので、今津留村 萩原村に連なる原村庄屋文書である。「みこ田」をめぐる高松村との相論文書であるが、発生は9日7ツ半(午後5時)時分に「ゆり出し」津波が押しよせた。なへ(地震)のゆり出しは高崎方面からで、長ふちからみこ田にかけて地割れがおこったという。さらに、原村については、「大地震大浪仕、右之田畠大分損シ無田ニ成申候ニ付…」「大浪大地しんニ田畠大分ゆりこみ、むたニ成…」ともみえる。この二点の史料からすれば、地震発生は「由原宮年代略記」等にみえる閏7月9日の午後5時ころとするのが正しいことになる。また、陥没というより「ゆり込み」とあるように、液状化現象による陥没を思わせる。なお、原村の沖あいに隣接していた 松崎村 住吉村 は全て海没したとある。以上から、瓜生島は架空の島であることが明白となった。したがって、歴史学によって証明された沖の浜海没の事実から、地震の名称は少なくとも「沖の浜地震」改められるべきであろう。
参考文献 『沈んだ島 別府湾 瓜生島の謎』ほか
[橋本 操六]
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