大給松平氏 ( おぎゅうまつだいらし)

紋は釘抜

〈大給松平氏の系譜〉
 徳川氏が三河国岩津 安祥城を本拠に西三河に勢力を拡げた15世紀前半〜16世紀後半に分出した、いわゆる「十八松平」と呼ばれる一族のひとつで、家康の5代前にあたる松平 親忠(ちかただ)の次子乗元が三河国加茂郡大給(愛知県豊田市)を領し、大給の姓を称したことに始まる。早くから松平宗家(徳川氏)に仕え、江戸時代には大給宗家の三河国西尾松平氏をはじめ、美濃国岩村松平 信濃国竜岡松平 豊後府内松平氏の大名家や数多くの旗本を配出した。
〈大給松平氏の豊後入り〉
 豊後 府内藩 を治めた大給松平氏は、乗元の孫 親清(ちかきよ)にはじまり、親清− 近正(ちかまさ)と大給宗家に仕え、天正18年(1590)徳川家康の関東入国にともない上野群馬郡三蔵に5,500石が近正に与えられ独立した。慶長5年(1600) 関ヶ原合戦 の 前哨(ぜんしょう)戦として知られた 伏見(ふしみ)城の攻防で守将鳥居元忠とともに近正は戦死、その功が賞せられ、子息一成に下野国都賀郡板橋1万石が与えられ大名に列せられている。一成の跡を 嗣(つ)いだ成重は、大坂の陣に出陣して軍功をあげ、元和3年(1615)三河国幡豆郡2万石の城主となり、同7年には2,200石の加増をえて丹波桑田郡亀山2万2,200石の城主として入封した。寛永10年(1633)成重が没すると子の 忠昭(ただあき) (ただあきら,ただてる)が跡を嗣いだが、翌年豊後へ移封となり、大分 直入 玖珠 速見郡に2万2,200石が与えられた。
〈府内藩主大給松平氏の成立〉
 丹波亀山から豊後へ下った忠昭は、速見郡亀川村(別府氏)内の 信行寺 を住居とした。彼に与えられた領地に城がなかったためである。寛永12年領内の 中津留村 (大分市)に居を移した忠昭は、翌年13年から書院普請をおこない陣屋の造営を始めている。しかしここも「水入りの地」として居住に適さなかったため、寛永19年幕府の許しをえて領内小路口村(大分市、のちの高松村)に居を移した。 小路口屋敷 とよばれたこの館は、「 高松御城聞書 」(「松平左近将監忠昭公御代留記」内に所載「 府内藩記録 」)によると、忠昭の府内移封によって本丸の部分を 高松代官所 として残し、あとは全て破却させたとあり、また享保19年(1734)の「奉差上原村浦由緒并浦役之事」(「 三浦家文書 」)には、小路口屋敷を「高松御城」と記し、その建設のために原村および近隣の村人が「御城普請」 「御船蔵普請」に駆りだされたことを伝えており、かなり大規模な工事がなされた造りであったと考えられている。
 明暦2年(1656) 府内藩主 日根野吉明(ひねのよしあきら) が病死すると、養子相続の交渉のかいもなく日根野家は断絶、 府内城 は幕府の管理するところとなった。明暦4年、その府内移封の命が忠昭に下った。当時江戸在府中であった忠昭は直ちに帰国し、小路口屋敷から行列を整えて府内城に入った。以降、明治4年の廃藩置県まで忠昭− 近陣(ちかのぶ)(在位1676〜1705年)− 近禎(ちかよし)(〜1725)− 近貞(ちかさだ)(〜1745)− 近形(ちかなり(のり))(〜1770)− 近儔(ちかとも)(〜1804)− 近義(ちかよし)(〜1807)− 近訓(ちかくに)(〜1831)− 近信(ちかのぶ)(〜1841)− 近説(ちかよし)(〜1871)の10代、約220年わたって府内藩主の座にあった。
〈府内藩の推移〉
 延宝4年(1676)忠昭は長子 近陣 に家督を譲った。その際、弟大学頭近鎮に本田1,000石と新田500石の計1,500石を幕府の許可をえて分け与えた(これを分知という)。また仁左衛門近良には 知行(ちぎょう)米支給のかたちで新田1,000石を与えている。この結果、本藩の本高は、近鎮の分知とされた本田1,000石分を差し引いた2万1,200石となった。
 また近陣の代に、同じ譜代大名である 杵築藩 能見(の(う)み)松平氏 との間に「松平日向守(2代杵築藩主重栄)御晦下され在所到着以後、参府有るべく候」(「御老中奉書」「 岡本家文書 」)として、同時に両藩主が国元を離れないように「 御在所交代 」の方式がとられるに至っている。
 4代 近貞 の治政、寛保3年(1743)には下柳町からの失火が原因で本丸天守はじめ東の丸 西の丸櫓が焼け落ち、侍屋敷71軒、町人の家屋1,079軒が消失するという大火が起きた。このとき消失した城内の天守や諸 櫓(やぐら)は以後復元されることはなかった。
 18世紀半ば、府内藩でも他の諸藩の例と同様、藩財政の行詰まりをみせ、宝暦4年(1754)から 藩札 を発行し財政の補填とした。一方、 七島藺(しっとうい) 楮(こうぞ) 櫨(はぜ) の特産品の奨励を行ない、財政の増収をも図っていった。しかしあいつぐ藩札の乱発は、物価の高騰を招き、領民の不満をあおるとともに、藩札の信用を失わせ、正貨への変換に人々が殺到する「 銀札崩れ (文政元、1818)」が起きた。以後、借財整理 財政再建にむけた政策が 近儔 ( 不騫(ふけん)) 近訓 (閑山)のころに具体化し、 岡本 主米(しゅめ) 広瀬久兵衛 らによって 天保改革 として推進された。また10代 近説 は寺社奉行 若年寄などの要職を勤めた藩主として知られる。
[武富 雅宣]

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