奥平氏 ( おくだいらし)

軍配団扇文

 享保2年(1717)、 小笠原氏 の後を受けて中津10万石に入部し、その後、 廃藩置県 まで9代154年間中津を支配した譜代大名が奥平氏である。現在、 中津城 に所蔵されている家紋は、「軍配団扇紋」と呼ばれており、軍配の形をしていて、松が左右対称に描かれている。
〈出目〉
 奥平氏は、15、6世紀のころ三河国 設楽(しがらき)郡 作手(つくで)(愛知県南設楽郡作手村)で勢力を持っていた家で、「奥平」というのは、上野国奥平郷(群馬県)に由来しているといわれている。戦国時代には、今川氏、後に徳川氏 武田氏に従っていた。 信昌(のぶまさ)の時に 長篠の戦い で活躍し、その功で徳川家康の娘亀姫を妻とし、三河譜代の大名として家康に従うようになった。 関ヶ原の戦い の後、美濃加納10万石、信昌の嫡子家昌が下野宇都宮10万石に封ぜられた。家昌から4代後の 昌成(まさしげ) の時、丹後宮津9万石(京都府)から中津に入部する。10万石の領知構成は、豊前の上毛 下毛 宇佐郡で6万2,000石、筑前の 怡土(いと)郡29か村(福岡県)で1万8,000石、備後国の 安那(やすな) 神石 甲怒(こうぬ)郡36か村(広島県)で2万石であり、3県にまたがっている。
〈著名な藩主とその事績〉
【 奥平 昌成(まさしげ) 】1694−1746 中津奥平藩の初代藩主。 享保2年、中津に入部。30年間にわたり 城下町 の編成、農村の掌握に努める。 凶作 のため藩財政が苦しくなり再三 倹約令 を出している。享保14年 藩礼 を発行、享保15年の 百姓 一揆(いっき) 、同17年の西日本を襲った大 飢饉(ききん) などにより、財政は一層困窮し、農民の 逃散(ちょうさん) や捨子が増加したといわれている。
【 奥平 昌敦(まさあつ) 】1724−1758 2代藩主。昌成の長男で、延享3年(1746)12月家督を継ぐ。領内の倹約に力を入れ自分の部屋の灯を2台から1台にしたといわれている。宝暦2年(1752)から 宝暦の改革 に着手し、特定の問屋に営業の独占をさせ、商人に対して新たに 運上(うんじょう) を課したり、銀礼の発行をするなどして藩財政の立て直しをはかった。
【 奥平 昌鹿(まさか) 】1774−1780 3代藩主。父昌敦が34歳の若さで亡くなったため14歳で藩主となる。在職中、文化面で卓越した面をみせ和歌 絵画に親しんでいる。また、「解体新書」を著した 前野 良沢(りょうたく) の蘭学学習を積極的に支援している。彼は良沢のことを「オランダの化物」とひやかしたといわれている。一方、彼の治世の時期に 池大雅(いけのたいが) が 自性寺(じしょうじ) (奥平家の 菩提(ぼだい)寺)に滞在し多くの作品を残している。現在その作品は自性寺の 大雅堂 に残されている。政治 経済面でも賢君と称されている。
【 奥平 昌高(まさたか) 】1781−1855 5代藩主。4代藩主 昌男(まさお) が24歳で没し、昌男の長男も早世しており嗣子不在で、御家断絶の危機をのりきるために、薩摩藩主 島津 重豪(しげたけ) の2男を急きょ養子にし、名を昌高と改めさせ、天明6年(1786)8月、5代藩主となる。打ち続く 凶作 や寛政3年(1791)、同5年(1793)の 町方騒動 、文化9年(1812)の 農民一揆 などが起き、政治 経済面では大きな成果は上っていない。文化面では、寛政2年に 藩校 「 進脩館(しんしゅうかん) 」をつくらせ、文化7年(1810)には『 蘭語訳撰 』(和蘭辞書)いわゆる『 中津辞書 』を刊行させている。文化8年、2男 昌暢(まさのぶ) に家督を譲ったが、引退後も政治に関与したといわれている。文化14年には、幕府の治役に任命されている。また、嘉永6年(1853)ペリーの浦賀来航の時には、開国論を唱え、貿易を許可し、相手の長所を取り入れた軍備を整えるべきだと主張したといわれている。
【 奥平 昌猷(まさみち) 】1814−1842 昌高の五男で7代藩主、天保4年(1833)兄の昌暢の家督を継ぐ。天保5年 黒沢庄右衛門 に 天保の改革 を行わせている。天保9年には 撫育会所 を設立し、下級武士 町人になどを救済したと伝えられる。
【 奥平 昌服(まさもと) 】1830−1901 8代藩主。6代藩主昌暢2男、天保13年昌猷の後を継ぎ8代藩主となる。元治元年(1864)の幕府の 長州征伐 、に幕命によって参加し、1万2,000余兵を率いて豊前国黒原(福岡県)へ出兵。幕末の政治的な激動期に幕府に従いながらも、一方では朝廷にも恭順の態度を示している。 中津藩 は慶応4年(1868)には、 鳥羽(とば) 伏見(ふしみ)の戦い で官軍方につき、幕府軍敗北後は、薩摩とともに会津まで行き戦っている。彼の在任中、豊前 豊後の勤王の志士らが倒幕のために挙兵した 御許山(おもとさん)騒動 が、慶応4年宇佐を中心として起きている。
【 奥平 昌邁(まさゆき) 】1855−1884 慶応4年前藩主昌服が病気を理由に引退し、その後を受け9代、最後の中津藩藩主となる。父は、宇和島藩主伊達宗城である。明治2年(1869)維新の主旨にもとづいて 藩政改革 を行っている。人材登用に選挙法をとるなど、旧習を破り新政を行った。 版籍奉還 後は、中津藩知事となる。明治3年には 中津城 は廃城となり、明治4年には 藩知事 を免ぜられる。
[佐藤 香代]

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