鬼塚古墳 ( おにづかこふん)

鳥・舟・木葉を描いた線刻装飾古墳

〈所在地および立地〉
 東国東郡国見町大字中2428の1番地にある線刻画の 装飾古墳 。国指定史跡。 国東半島 の先端にある 竹田津(たけたづ)港 を望む標高110mほどのなだらかなオノ山の頂部に営まれた11基からなる 西山古墳群 のうちの1基である。古墳群からの眺望はよく、 黒曜石 で有名な 姫島 はもちろん晴れた日には遠く四国や山口県沿岸の山々まで見渡すことができるが、古墳自体が小形であるうえわずかな傾斜地に半ば埋め込むように築造しているため、逆に海上からの目印になることはない。西山古墳群のうち現在も位置が確認できる古墳は8基で、鬼塚古墳は頂部を占める6基のグループに属す。わずかに南斜面側に位置するため竹田津港を眼下に見下ろす立地である。
 西山古墳群の考古学的調査は、鬼塚古墳以外行われていないので詳しいことは分からないが、鬼塚古墳とほぼ同じ構造をもつ6世紀後半前後の古墳とみられる。この種の 群集墳 は通常やや下位のクラスの古墳とみがちであるが、この地域に西山古墳群以外に古墳が存在しない事実から、やはりその時期の首長層の墳墓とみるべきである。
〈墓前祭の情況を物語る出土品〉
 鬼塚古墳は、南面する丘陵緩斜面に石室を半地下式に埋め込むようにして造ったいわゆる山寄せ式の古墳で、南側に開口し、背後の斜面には扇形の削り込みが見られる。このため外形は意外と小規模で、南北の主軸方向にやや長くおよそ13.4m、東西10.2mほどの 楕円(だえん)形をなす。外周の濠は傾斜地のため全周を巡らず、2.5〜3mの幅で 馬蹄(ばてい)形に付く。
 石室は大形の 安山岩(あんざんがん) 系石材を用いた「羽子板」状を呈する単室の 横穴式石室 である。 玄室(げんしつ)の規模は奥行き3.8m、幅は奥壁側で約2.3mある。 袖石(そでいし)の間隔は約1.3mで 羨道(せんどう)部の幅にほぼ一致する。羨道部は石積みがしだいに傾斜しながら墳丘裾部まで達し、前庭部ないしは墓道的要素の部分と不可分であるが、全長約4.2mのうち天井石で覆われるのはマグサ石から約2.5mの間である。羨道部床面は袖石から1.8mのところまでは石室から続いてほぼ水平の石敷きが行われ、羨道はこの位置で閉塞される。
 鬼塚古墳が早くから開口していたらしいことは、内部で発見された12〜3世紀ごろの土器や、玄室に16世紀ごろ営まれた2基の 土壙墓(どこうぼ) などによって分かるが、そのため古墳に伴う遺物はあまり多くはない。石室及び閉塞部までのところから刀片 鉄鏃(てつぞく) 大刀金具 金環 ガラス玉 須恵器(すえき)坏 高坏(たかつき) などが出土した。一方、閉塞部とその外側の前庭部からはほぼ原状を保って 須恵器 類が発見された。平瓶が7点と多く、その外坏 高坏 蓋付壷 提瓶 土師器(はじき) 壷(つぼ)などがあり、鉄鏃も出土している。これらの遺物は、古墳閉塞に伴う祭と墓前 祭祀(さいし)の情況を物語る。
〈線刻壁画〉
 鬼塚古墳を特徴づける線刻画は、玄室奥壁ならびに左右の壁の各1石にみられる。壁石の表面がやや風化して柔らかいため後世の追刻が多く、オリジナルの刻線を明確に判別するのは極めて難しいが、画題は樹木や木葉 鳥といった自然の景物と、舟やそれに乗った人物あるいは梁のようなものが稚拙なタッチで描かれており、 漁撈(ぎょろう) を中心とした日々の営みを表したものと考えられる。
 東九州の線刻装飾古墳には、鬼塚古墳のほかに玖珠町 鬼ヶ城古墳 福岡県穴ヶ葉山古墳などが知られているが、ともに鳥や木葉といった画題を描いている点で共通性がある。
[真野 和夫]

[お]メニューに戻る