小原鑑元 ( おばらあきもと)

姓氏の争いに関係か

 ?−1556 戦国時代の武将。 小原 右並(すけなみ) の子という。はじめ神五郎のち鑑元。官途名 遠江守。入道して遠江入道宗惟。大友家の 加判衆(かばんしゅう) 。肥後関城( 南関(なんかん)城 熊本県玉名郡南関町)城督。 大友 義鎮(よししげ) に反して討伐を受け、弘治2年(1556)5月討死。
〈出自〉
  大神惟基(おおがのこれもと) の子 阿南惟季(あなんこれすえ) 流。惟季曽孫 友隆(ともたか) が小原氏祖。 本貫(ほんがん)は豊後国 阿南(あなん)荘 (庄内町)。「 豊後国 図田帳(ずでんちょう)」に阿南荘六郎丸名6町6段 小原六郎 頼隆(よりたか) とある。明応5年(1496)、 大聖院宗心(だいしょういんそういん) に 与(くみ)した 小原神四郎 は、鑑元の類縁の人物か。また、同年11月3日、大野郡 緒方荘 小河名(おがわみょう) の内、 小原神五郎 跡100貫分が、 志賀蔵人入道 に預けられている。大聖院宗心方についたため、没収されたのであろうか。この神五郎は鑑元の父右並であろう。小原神五郎右並は、明応10年2月には、宗心の加判衆となってその命を 遵行(じゅんぎょう)している。その後、 大友 義長(よしなが) の重臣となり、永正5年(1508)11月から6年閏8月までには、 三原(ヵ) 親賢(ちかかた) とともに筑後守護代官に任じられ、また、永正13年12月には、 大友 親安()( 義鑑(よしあき)) の加判衆となっている。永正14年2月、 朽網親満(くたみちかみつ)の乱 に当たって、玖珠郡に出陣し、その鎮定につとめている。右並(伊予守)の加判衆役は、大永5年(1525)閏11月までみえ、以後は交替する。
〈大友家における地位〉
 大永4年9月の「犬追物手組事」(『 増補訂正編年大友史料 』15)の中に 小原伊予守(右並) と小原神五郎の名がみえる。これがのちの鑑元に違いない。両名とともに 雄城(おぎ) 津久見 田北(たぎた) 吉岡 豊饒(ぶにょう) 本庄(ほんじょう) 臼杵氏 が加わっている。いずれも、大友義鑑の重臣であるから、神五郎(のちの鑑元)もこのときには、すでに重臣となっていたことがわかる。天文19年(1550)2月、大友 二階崩れの変 によって重傷を受けた大友義鑑の遺言である「 条々(じょうじょう) 」に、 田北大和守( 鑑生(あきなり)) 一万田弾正忠(いちまんだ)( 鑑相(あきすけ)) 臼杵四郎左衛門尉( 鑑速(あきはや)) 吉岡 越前(えちぜん)守( 長増(ながます)) 小原四郎左衛門尉(鑑元)の名があげられている。鑑元はこのときに「重書並日記箱所管奉行」に任じられたのであろうか。義鑑は遺言の中で、加判衆は6人とし、紋の衆(大友系)3人、他姓衆3人をその地位につけよとした。大友義鎮が国守となった天文19年5月、 他姓衆 である鑑元は加判衆に任じられた。このとき、肥後の 菊池 義武(よしたけ) が義鎮に反逆すると、義鎮は鑑元らに討伐を命じている。5 6月、大友軍は苦戦したが、7月、 戸次鑑連(べっきあきつら) ら本軍の肥後到着によって優勢に転じ、8月、乱の鎮定をみた。以後も、鑑元は加判衆の地位にある。義武の乱ののちも、義鎮は鑑元を肥後関城に留め、天文20年6月、肥後国山上衆らに鑑元の 寄子(よりこ)として、奉公を励むように命じる。12月、鑑元は関城にあって、残党の掃討に当たった。翌21年3月まで鑑元は加判衆の地位にあるが、これ以後、加判衆から外れる。
〈鑑元の乱〉
 弘治2年5月、小原鑑元 佐伯惟教(さいきこれのり) 本庄新左衛門尉 賀来(かく)紀伊守 中村 長直(ながなお) らが義鎮に対して謀反をたくらみ、討伐される事件が起こった。乱の原因は、「 大友興廃記 」佐伯惟教の記述中に姓氏の争いからであるとしている。いわゆる 氏姓遺恨事件 である。義鑑の遺言「条々」に決めた加判衆の構成比は、天文19年11月 20年6月 21年3月では 同紋衆 4 他姓衆2、21年11月では同紋衆4 他姓衆1、22年 弘治元年も同様であり、同紋衆がつねに多数であった。このことは、大友家内の同紋衆の優越を示している。このような義鎮の治世に対する他姓衆の不満が、鑑元らの謀反の原因と考えられている。鑑元は2万の軍勢をもって関城で、佐伯惟教も 栂牟礼(とがむれ)城 で抵抗する。義鎮は 志賀 鑑綱(あきつな) 同 親度(ちかのり) 戸次鑑連 田北 紹鉄(じょうてつ) らを派遣して鎮圧する。また、周防国の 大内 義長(よしなが) 、宇佐郡の 佐田 安心院(あじむ)氏 にも 落人(おちうど)討伐を依頼している。 耶蘇(やそ)会士のヌネスらの通信によれば、義鎮は反逆の嫌疑のある大身13人の家を焼き払い、家族 家臣を滅ぼした。双方の戦死者は7000人に及び、義鎮も危険を避けるため、 丹生島(にゅうじま)城 ( 臼杵城 )に退避したという(『 耶蘇会士日本通信豊後篇 』上)。緒戦における戦乱の状況であろう。鑑元は弘治2年5月、関城で討ち死、本庄新左衛門尉 中村長直も成敗された。佐伯惟教は一族 家臣を率いて栂牟礼城を退去、伊予国に逃れたが(『 大友家文書録 』)、のち許されて豊後国に帰住した。弘治2年6月ころから、乱後処理がはじまる。謀反人の領地は全部没収され、手柄のあった家臣らに与えられる。小原鑑元の豊後国外100町以上 、同国内110貫以上の 所領(しょりょう)が志賀鑑綱 親度、戸次鑑連、田北中務少輔らに、賀来紀伊守の豊後国外8.8町以上、同国内5貫以上の所領が荒木中務丞らに、中村長直の豊後国外5町以上の所領が向中務丞に、木村三郎左衛門の豊後国内の20貫の所領が田村孫次郎に与えられた。
[芦刈 政治]

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