御許山騒動 ( おもとさんそうどう)
抹殺された勤皇の志士たち
鳥羽(とば) 伏見(ふしみ)の戦い の直後の慶応4年(1868)正月14日から同月23日にかけて、豊前四日市 御許山(宇佐市)を舞台として起こった勤皇倒幕の挙兵事件。
〈 花山院隊蜂起(かざんいんたいほうき)〉
慶応4年(明治元年)正月14日の夜更け、60名ほどの浪士たちが豊前四日市の、当時は久留米藩預かりとなっていた 日田天領 四日市陣屋 を襲った。大砲や弾薬などを奪い陣屋に火を放った浪士たちは、役人たちが逃げこんだ東本願寺別院にも放火、近くの民家7軒も類焼した。翌16日早朝、奪った大砲2門を引いた浪士たちは、 宇佐八幡神 発祥の地といわれる御許山( 馬城峰(まきみね))に登り、山上の僧坊に陣をかまえ錦の 御旗(みはた)を掲げた。そして、近隣の諸藩や有志に勤皇挙兵への参加、応援を呼びかける 檄(げき)を飛ばした。御許山に挙兵した浪士隊は、勤皇派の 公卿(くぎょう) 花山 家理(いえのり)を盟主としたため、花山院隊と呼ばれている。その中核となっていたのは、長州藩支藩の豊浦藩報国隊に身を寄せていた福岡藩脱藩の 桑原範蔵(くわばらはんぞう) 、 藤林六郎(小藤四郎) 、秋田藩脱藩の 小川潜蔵 ら諸藩の浪士や、 二豊(にほう)出身の 佐田 秀(ひずる) 、 下村 御鍬(みくわ) (ともに安心院出身)、 矢田宏 (別府出身)らに長州藩士の 平野四郎( 若月隼人(わかづきはやと)) とその門下生たちであった。
〈挙兵までの道のり〉
豊後日田に勤皇の兵を挙げる。この計画が二豊の地にもたらされたのは、文久3年(1863)、勤皇派の公卿 中山忠光の内命を受けた下毛郡落合村(本耶馬渓町)の神官 高橋 清臣(きよおみ) によってであった。以後、幾度かの挫折をみながら慶応2年の第2次長州戦争を期に運動は活発化する。 西国筋郡代(さいごくすじぐんだい) 窪田治部右衛門(くぼたじぶうえもん) の志士たちへの追求も厳しくなった。幕吏の手をのがれた二豊の志士たちは、長州へのがれそこで日田挙兵の計画がすすめられていく。こうしたなかで、長州藩に身を寄せていた浪士たちと、二豊の志士たちが結びついていく。慶応3年12月には、日田天領下の天草富岡陣屋を矢田宏らが襲い8,000両余の金を奪い、長崎で兵器を購入し決起に備えた。盟主にあおぐ花山院家理も、同月初め周防国 久賀(くが)村(山口県大島郡)に下向した。馬関(下関市)に結集していた志士たちは、正月7日、鳥羽 伏見の戦いの勝報を聞いて決起に踏み切った。矢田宏、 島田 虎雄(とらお) (中津藩浪人)、 山口 兵部(ひょうぶ) ( 加藤龍吉 、 杵築藩 脱藩)らは、花山院を迎えに久賀島へ出発した。志士たちの暴走をおそれた長州藩は、総裁格の藤林六郎、小川潜蔵を捕えた。佐田らは 報国隊 を脱走、船で豊前に向かった。その数56名、長州藩士平野四郎が一番隊長として、武術の門下生22名を率いて参加した。
〈偽官軍としての最後〉
御許山で勤皇挙兵の報は、二豊の諸藩を驚かした。長州藩を後だてにしている、という風評だけに諸藩は対応に苦しんだ。 中津藩 、 日出藩 は藩境に出兵して様子を見守り、四日市の警備にあたっていた久留米藩も兵を集めたが動けずにいた。花山院隊は中須賀(宇佐市)の御蔵米を山上に運び、陣地を固めた。かねてより日田侵攻の計画に悩まされていた西国筋郡代窪田治部右衛門は、正月17日、日田を捨てて肥後へ逃亡する。正月20日、豊前 宇島(うのしま)(豊前市)に 福原幾弥(ふくはらいくや) の率いる報国隊1小隊と、野村右仲の率いる長州藩第3大隊1小隊が上陸、翌21日、中津藩から 大砲 を借りて四日市に進駐、西本願寺別院 正明寺(しょうみょうじ)に陣をとった。そして、この挙兵が勅許を得てないこと、長州藩の名を勝手に使ったこと、脱隊違反の罪を犯したことをあげ、きびしく追求した。佐田らは大義を説いたがいれられず、23日に至り会議の席上で責任をとって平野四郎は切腹、佐田秀は斬殺された。
御許山は長州兵の攻撃によって陥落、総裁の桑野範蔵は戦死、僧坊は焼失した。長州兵は捕えた柴田直次郎を斬り、「口に正義を唱え盗賊の所業せし者」として、佐田 平野 柴田の首をさらした。花山院も正月14日、警備の矢田、山口らとともに長州藩に捕えられ、後に京都に護送された。御許山とは別に、正月18日に天草の富岡陣屋を襲った花山院隊別動隊を名のる1隊があった。結城小太郎を隊長とするこの隊は、21日に薩摩藩の出兵によって兵を引き、御許山へ合流をはかったが、豊前 香春(かわら)(福岡県)で御許山陥落後の2月1日、小笠原藩に討伐されている。花山院隊は、諸藩の脱藩者を含んではいるが、その多くが庄屋 神官 医者 農民 町人などの、いわゆる 草莽(そうもう)たちによって結成されていた。計画の実際の推進者は、二豊出身の草莽たちであった。二豊に勤皇の大義をたてる、それは身を寄せた長州藩諸藩の隊規を破って行われた。藩の統制を離れた草莽は、切り捨てられる運命にあった。「 四日市強盗 」の汚名を着せられ、 草莽隊 弾圧の先がけとなったのである。隊の組織や資金 兵器の調達、解隊後ほとんど罪状が追求されなかったことなど、謎の部分が多い。
参考文献 高木俊輔『明治維新草莽運動史』
[佐藤 節]
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