生野祥雲斎 ( しょうのしょううんさい)

わが国竹工芸の第一人者

 1904−1974 竹工芸家。本名秋平。一時夢雀斎楽雲、祥雲斎泰山を号す。明治37年9月10日、大分郡石城川村大字内成352番地(別府市大字内成)に父生野米吉、母マツの四男として生まれる。師について2年余りで竹芸の技術を習得、若くして実力を認められるようになった。昭和15年(1940)紀元2600年奉祝展入選以後、新文展 日展 新日展 日本現代工芸展 日本伝統工芸展などに作品を発表する。竹芸を、用を意識したせまい工芸領域から解放し、純粋に造形芸術として自立させるという重要な仕事を成しとげた。 重要無形文化財 竹芸保持者。
〈経歴〉
 画家や彫刻家にあこがれながら、病身で、兄弟が多かったために美術学校の夢を捨て、たまたま県内で開かれた展覧会での竹カゴに刺激されて、自立の道を決める。大正12年(1923) 佐藤 竹邑斎(ちくゆうさい) に師事、同14年独立して自営。師の没(昭和4年)後、県の委託による宮家への献上品を多く制作するなど、県内における高級 花篭(はなかご)の制作者としてその名を知られるようになった。昭和13年(1938)から21年まで 大分県工業試験場 別府工芸指導所 に勤務。同15年紀元2600年奉祝美術展に「 八稜櫛目編盛籃(はちりょうくしめあみもりかご) 」が入選、以後文展等で活躍するようになる。同18年第6回 文展 で特選受賞、無鑑査となった。戦後は日展に出品、同31年第12回日展で北斗賞、翌年第13回日展で特選 北斗賞を受賞し、同33年審査委員に就任、同34年には日展会員となった。同37年から3年間日本現代工芸美術展(現代工芸美術家協会)に出品。同41年第13回日本伝統工芸展(日本工芸会)鑑査員。同42年重要無形文化財竹芸保持者に認定された。同44年 紫綬褒章 を受章。その他の展覧会では、オーストラリア,ニュージーランド巡回日本現代美術展(33年)、日本人の手−現代の伝統工芸−(35年,国立近代美術館)、現代日本の工芸(39年,国立近代美術館京都分館)、オリンピック東京大会芸術展示 近代日本の名作(同,国立近代美術館)、 人間国宝 新作展、明治 大正 昭和名作美術展などに招待出品した。また、終始大分県に住んで制作をしていたことから、郷土の 大分県美術協会 と深く関わり、戦後の第1回 県美展 から作品を出品(審査員)、以来県工芸美術の指導者として、その発展に大きく貢献した。昭和49年(1974)1月10日、腎不全のため国立別府病院にて死去。享年69歳。死去により、重要無形文化財保持者の認定が解除される。勲四等旭日小綬章が授けられる。
〈作品〉
 自ら作品解説に「(前略)形態及び編組法ハ従来の古典味ニ尚且ツ新感覚を加味シ実用価値ノミナラズ美的価値ト重厚サトヲ表現ス可ク(後略)」とした「八稜櫛目編盛籃」が入選して中央に登場。竹という素材を十分に生かし、個性と創造性に富んだ表現を追求する。それは「時代編盛籃 心華賦」(昭和18年)で一つの新境地に到達。その傾向は、さらに「櫛目編華籃 悠然」(同21年)、「十字華紋高坏盛籃」(同27年)などへと展開していく。昭和28年それまで連続入選をしていた日展に落選。このことは逆に「28年の落選がなかったら今日の私はなかったかもしれない」と言わしめたように、創作についての自らの態度をはっきり確認させることに役だった。つまり、従来の用の美を重視した工芸から、純粋造形美に徹しようとする新たな追求姿勢であり、それは、「波(盛夏)風炉先」(同29年)、「竹盛籃 うねり」(同30年)、「竹花器 怒濤」(同31年)の波三部作、さらにはモビールという吊り花篭の形態をとった「花籃 炎」(同32年)に表われて、この傾向での一つの完成を見た。以後の「花籃  陽炎(かげろう)」(同33年)、「川(花器を兼ねたモビール)」(同37年)、「吊華籃 翔天」(同38年)などはそうした自由な創作のシリーズである。また、「 怒濤(どどう)」 「炎」のような軽快さとは別に、竹の 強靱(きょうじん)さを強調した作品も制作されている。それらは、自ら会心の作と認めた、荒々しく野性的な「虎圏」(同34年)、鳥の 獰猛(どうもう)さを童話的な表情で表現したオブジェ風の作品「 梟将(きょうしょう)」(同37年)そして、「紫竹盛籃 田里」(同39年)、「花器 久寿玉」(同頃)などに見られるようなスケールの大きな作品に表われている。昭和30年代後半までこうした自由な表現を展開させてきた生野は、同41年第13回日本伝統工芸展の鑑査員に就任し、以後日本工芸会に属して活動を続けることになる。作品も、今一度竹という素材の美しさを表現すべく、再び伝統的な造形へ帰る。同42年重要無形文化財竹芸保持者に認定されてからは、素直に竹の生命を生かした作品へ向かうことになる。中でも「白竹一重切華入 くいな笛」、「白竹通筒華入」などの筒物に表われた単純にして清楚な造形は見事である。生野は、竹芸を純然たる造形として自立させた作家であった。
 参考文献 『生野祥雲斎竹芸作品集』(講談社) 大分県立芸術会館『生野祥雲斎展図録』
[後藤 龍二]

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