大分県体育協会 ( おおいたけんたいいくきょうかい)

先進県大分

〈大分は体育協会先進県(以下体協という)〉
 体協を組織して スポーツ の普及振興をはかろうとする考え方は明治33年(1900)の 日出(ひじ)体育会 にみられる。会側には気象の鍛練 体育の発展をうたい、役員指導者 会■ 運動部門 大会及練習が明定されている。スポーツの揺籃期にこのような組織活動が大分県内にあったことは、体協先進県を自負するにたる実績である。また同年から県下全中等学校総合体育大会ともいうべき 公勇会大会 が3回開催されている。交通機関の整わない時期に2,000余りの学生を集めた体育大会を企画運営した公勇会組織も、体育団体の組織活動先進県としての面目を示す快挙である。
〈スポーツ開花に尽力した教育会〉
 明治末から大正初期にかけてスポーツは青年 児童の間にも拡がり、通俗教育の一環として 大分県教育会 画素の振興にあたり、全県下に及ぼしていった。 教育会 は青少年を対象とした体育奨励会を大正5年(1916)以来毎年開催。回を重ねるたびに新種目導入、競技内容の近代化を試みたので、県スポーツ界に新風をおこしていった。また地方予選をかねた各郡市連合運動会も競技会へと質を高め、体育協会設立の気運を高めていった。大正10年、民間有志の手によって大分県体育協会が設立された。事務局を教育会において体育の健全な発達を期して教育会事業を継承、 県体育大会 開催 九州中等野球へ選手派遣 陸上競技講習会等を開催した。その後体協の財団法人化をはかったままその動向は記録から消えているが、体協の自立への試みなどについてもまた、大分体協の先進性が注目されるのである。
〈本格体協の成立とその消長〉
 体協が3年で消滅したあと、主催者を失った県民体育大会は、再び教育会が復活第一回県民体育大会を開催して、盛りあがるスポーツ気運に応えた。その間地域体育団体や種目団体の設立が相次ぎ、スポーツ事業の増加や水準向上が顕著となり、草創期から興隆期へと脱皮が進められた。かねて体育関係者が要望していた 体育主事 が設置されるや、文部省誘導の下大分県体育協会を結成した。昭和6年(1917)2月であった。全国で23番目、九州では福岡 熊本 佐賀についでの設立であった。総裁に知事、会長は学務部長、以下教育行政、中等学校長、市町関係を配し、団体会員は公私立中等学校校友会、個人会員9、その他団体会員としては 連合青年団 が入っている。体協は県内各種競技会のほか講習会 体育視察 地方体育育成などの事業を行い、年々規模、内容を高めてスポーツ振興の実をあげた。しかし、昭和12年12月の 国民精神総動員運動 以降スポーツの国家管理統制が進められ、同17年3月大日本体育会が成立してからは、国防のためのスポーツと軍事化推進の中でスポーツは衰退し、系列下にある県体協(大日本体育会大分県支部)も、有形無機能化して 終戦 を迎える。
〈体協民主化の道〉
 20年9月22日、 大日本体育会大分県支部 は「体育振興新策懇談会」を開き組織改革に早速とりかかり、翌年11月の第1回国民体育大会開催を機に 大分県体育会 を設立した。21年9月であった。郡市 種目代表で構成する評議員会は会長に 麻生益良 をおしたが、その後 芦刈緑郎 に移り、同年12月 岡本忠夫 が赴任した。県体育会は戦後のスポーツ復興に努め、 国体 参加など努めたが、23年県民のスポーツ祭典、第1回 県民体育大会 を開催して民主スポーツ振興の拠点事業に点火した。その後体育会の組織 運営上の問題を改善するため郡市加盟団体の分担金制度を導入、種目団体を傘下に収めた県体育協会として25年3月発足した。初代会長は岡本忠夫が引き継いだ。この制度の確立は事業推進の安定性を確保するものとして、全国の体協関係者に注目された本県体育界の先進性が久方ぶりに芽を出したのである。
 文部省体育局の廃止は、体育行政の多元化からくる混乱で地方体育行政を大きく停滞させたが、教育委員会発足時設置された体育保建課と一体となった県体協は、年を逐って強化され、35年には23郡市21種目をする規模となり、国体誘致を図るまでになった。国体開催には、組織のうちでも未普及種目の育成、選手役員の育成強化が大きな課題となっていたが、種目 郡市 学校 職域を挙げた協力によって成功裡に終わり、スポーツ面での大きな遺産を残すことができた。その後県体協は公益的機能をより発揮するために運営体制の強化をはかり、事業内容を拡充 資金確保を図るため法人化を決議。48年2月財団法人大分県体育協会(会長 小林政治 )として発足した。財務 競技力などの4専門委員会を設置しスポーツの翼 県体ブロック関係など、国際化や地方スポーツの普及振興に努めている。
[甲斐 正人]

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