高橋紹運 ( たかはしじょううん)
筑前を守る大友氏の柱石
?−1586 戦国時代末期の武将。高橋家9代家督。父は 大友庶家 大友家 加判衆(かばんしゅう) 吉弘 鑑理(あきただ) 。母は不詳。通称孫七郎、初名 鎮理(しげただ) 、のち 鎮教(しげのり) と改名。主膳兵衛尉。『 大友家文書録 』は主膳正。 剃髪(ていはつ)して紹運と号す。永禄12年(1569)豊前 小倉(こくら)城 に移封を命じられた 高橋 鑑種(あきたね) の跡をうけて、岩屋 宝満(ほうまん)両城の城主となる。「 大友吉弘氏系図 」では翌元亀元年(1570)のことという。天正14年(1586)島津氏に攻められ戦死。没年齢から天文17年生まれか。
〈高橋家を継承〉
吉弘氏は大友庶家 田原氏 の分流であるが、南北朝末期には将軍家 小番(こばん)衆 の一人として重要な地位を占めていた。紹運の父鑑理は、大友家加判衆の一人で、 戸次鑑連(べっきあきつら) 臼杵 鑑速(あきはや) と共に三老に数えられ、 立花 鑑載(あきのり(とし)) 誅伐後の 立花城城 督となるが元亀2年(1571)病没。紹運は鑑理の次男。妻は 斎藤 鎮実(しげざね) の妹。子に 高橋 統増(むねます) と立花家を継いだ 立花 統虎(むねとら) がいる。『大友家文書録』によると、毛利と通じて宗麟に反した高橋鑑種を許して小倉城に移した後、高橋旧臣らの請を入れて吉弘鑑理の次子孫七郎をして 高橋主膳正 鎮種(しげたね) と号させ、鑑種の先給地を授け、岩屋 宝満両城を預けたという。その時期は「頃間」とのみあって正確な年月は示してはない。『 史料綜覧 』『 増補訂正編年大友史料 』は永禄12年11月ころとしているが、「大友吉弘氏系図」は元亀元年のこととしている。史料上で確認できる紹運の初見は天正7年正月18日付け書状で、差出者として紹運の名がみえる。『大友家文書録』は「筑前高橋主膳入道紹運…」として収録している。内容は、秋月 筑紫との合戦での 岩屋城 麓における 屋山三介(ややまさんすけ) の軍労を賞したものである。この史料から、鎮種の剃髪は天正7年以前であることは間違いないが、詳細な時期は史料の少ないことから確認し得ない。
〈諸将の離反と紹運の活躍〉
天正6年正月、日向国の大半を支配していた大友氏の姻族 伊東氏 が、島津氏との勢力争いに敗れ、大友氏を頼って豊後に入った。 大友 宗麟(そうりん) 義統(よしむね) 父子は伊東氏の旧領回復を名目に4月出陣し、延岡地区をたちまちのうちに手中に収めた。この時、義統が報告した延岡地区の土地柄は、宗麟のキリスト教的理想国家建設を計画させることになり、秋の出陣となった。高城をめぐる攻防は一日の合戦で勝敗が決し、宗麟は 無鹿(むしか)(務志賀) から敗走する。この大友氏の敗北は、それまでの勢力分野を大きく塗りかえることになる。すなわち、島津氏の北上作戦の開始であり、肥前 龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ) の台頭である。これにより、大友 麾下(きか)の部将の再編がなされることになる。天正6年12月、龍造寺隆信が筑後より筑前に入った。 秋月種実(あきづきたねざね) らは隆信の旗下に参集するが、立花城の 立花 道雪(どうせつ) 、 宝満城 の高橋紹運の活躍により、隆信は軍をかえしている。7年正月には 筑紫広門(ちくしひろかど) 秋月種実が岩屋城の屋山三介を攻めるが敗れ、3月には大友氏に背き豊前 蓑島(みのしま)城 に 篭(こも)った 杉 重良(しげよし) を紹運が攻めている。また、秋月種実と筑前石栗嶺で会戦し、これを攻め破っている。9月、種実が宝満城を攻めるが、戸次道雪と合流した紹運は同国吉水で会戦する。さらに嶺下に戦場を移して種実を 弥永(やなが)に敗走させている。天正9年7月、隆信に組した筑紫広門らは 大宰府 に陣して紹運と 対峙(たいじ)する。道雪よりの援軍を得て会戦するが、援軍の 竹迫統種(たけざこむねたね) らが戦死する。8月、紹運の長男千熊丸 統虎(むねとら) は立花道雪の養子となった。
〈筑前を守る大友氏の柱石〉
天正12年3月24日、龍造寺隆信は島原で戦死した。これにより島津氏の北上が急展開することになる。また、立花道雪 高橋紹運も筑後に入り旧領の回復に乗り出す。天正12年9月、道雪 紹運は使者を 島津 義弘(よしひろ) のもとに遣して、共に秋月 龍造寺を討とうと提案しているが、薩摩国主 島津 義久(よしひさ)は同日 龍造寺 政家(まさいえ) の和を受け入れている。一方道雪 紹運に攻められる 黒木 龍造寺らは、大友勢を討つべく援兵を島津に求め、島津も大友軍の撤退を求めるなど、風雲急を告げる事態となった。13年9月肥後を平定した島津氏は筑後に兵を進めると共に、国主義久に大友氏討伐を進言する。同月23日、筑紫広門は宝満城を攻めて火を放ち、守将高橋統増を岩屋城に敗走させた。翌10月6日、義久は諸将と会して大友氏討伐を諮っている。天正14年3月、島津氏は秋月種実 龍造寺政家 筑紫広門から 質子(ちし)(人質)を徴して大友攻めに備えようとしたが、広門はこれを拒否して大友氏に応じた。7月、島津義弘 伊集院忠棟(いじゅういんただむね) らは紹運を岩屋城に囲んだ。25日、近日中に秀吉 毛利勢の来援があるので岩屋城を死守せよとの間者が捕えられ、26日には秋月 城 宇土衆による攻撃で 下拵(したごしらえ)が破られた。紹運は岩屋城は明け渡さないが 和睦(わぼく)したい旨を申し出たが受け入れられなかった。翌27日の総攻撃で午未の刻に落城した。さしもの紹運も衆寡敵せず自刃した。39歳という。墓は岩屋山上にある。
[橋本 操六]
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