田北紹鉄 ( たぎたじょうてつ)

熊牟礼城の挙兵

 ?−1580 戦国時代の武将。 鑑生(あきなり) の子。初名は 鑑富(あきとみ) 、のち 鑑重(あきしげ) 。入道して紹鉄。官途名勘解由左衛門尉、大和守。 熊牟礼(くまむれ)城 (庄内町)の乱を起こす。天正8年(1580)4月13日、日田郡で敗死。
〈出自〉
 田北氏は 大友 能直(よしなお) の孫 親泰(ちかやす) を祖とする。親泰は 親秀(ちかひで) から、豊後国直入郡 田北村 地頭職 同国速見郡 日差(ひさし)荘 地頭職(山香町)を譲与された。このほか、肥後国 味木(あまぎ)荘(熊本県甘木町)同国福富荘(同県豊福町)地頭職 税所公文職 国侍所職を譲与されている。豊後国直入郡田北村(直入町)が本領。 親員(ちかかず) 鑑生は大友家奉行人。
 田北氏略系図
 能直−親秀−親泰− 頼元(よりもと)− 頼広(よりひろ)− 親広(ちかひろ)− 泰直(やすなお)
 − 氏直(うじなお)− 親直(ちかなお)− 親増(ちかます)− 親忠(ちかただ)− 親載(ちかとし(のり))− 親幸(ちかゆき)− 親盛(ちかもり)
 −親員−鑑生−鑑重(紹鉄)−鎮周−統員
             (大友義一本 田北武春本)
〈地位と軍陣〉
 天文18年4月、 城後(じょうご) 田北加賀守 に 知行(ちぎょう)を預けている。家督の地位にあったのであろうか。同19年2月には、義鎮の 申次(もうしつぎ)職として側近にあった。弘治2年(1556)5月、 小原鑑元(おばらあきもと) の謀反鎮定のため出陣、 玖珠郡衆 野上氏 らと同心して奮戦した。永禄5年(1562)9月、対毛利戦に当たって、 宇佐宮 に戦勝祈願。翌10月、 戸次鑑連(べっきあきつら) の指揮下にあって 門司(もじ)城 を攻めた。6年5月、同陣衆 山香東西一揆(やまがとうざいいっき) の軍労を 大友 宗麟(そうりん) に注進している。8年6月、豊前 長野筑後守 討伐では 都甲(とごう) 恵良(えら) 長野氏 山香東西一揆と同陣、9月、 三ヶ岳城() 破却。12年4月、毛利軍の豊前進出に備え、宗麟は鑑富(紹鉄)らを田川郡に派遣して駐屯させる。天正6年4月、日向 土持(つちもち)氏 討伐に出陣、11月、 日向高城合戦 では 鎮周(しげかね) をはじめ多くの一族を失う。7年12月、 秋月種実(あきづきたねざね) 討伐に出陣、豊前仙津に戦うが、大雨に乗じる夜襲を受けて敗退、 中津城 に入る(『 大友家文書録 』)。8年ころ、義統は紹鉄を老中に任じようとしたが出仕しなかったという(「 大友興廃記 」)。
〈熊牟礼城の挙兵の原因〉
 挙兵の原因には諸説がある。天正8年の初めころ、秋月種実との謀書が発見されて討伐を受けることになった。筑前秋月種実が筑前から大友氏の勢力を駆逐するため、紹鉄に反乱工作を行ったとする(『大友家文書録』「大友興廃記」)。また、紹鉄の宣教師殺害計画の情報が宗麟に通報された。調査の結果、事実であったことが確かめられた。陰謀が露見したことを知った紹鉄は大友氏への敵対を明らかにした(『 耶蘇会士日本通信豊後篇 』下)。別に、日向高城合戦で義子鎮周をはじめ多くの一族を失った。この犠牲は指揮者 田原 紹忍(しょうにん) の責任である。このことで紹鉄は紹忍と不和を生じた(『 増補訂正編年大友史料 』24)。これら諸説に対して 讒言(ざんげん)説がある。紹鉄は宗麟 義統(よしむね) に不満をもっていたわけではない。讒言のため切腹を命じられ、やむを得ず、熊牟礼城で挙兵したのであるという(『 史料綜覧 』)。8年閏3月、紹鉄は城後 須郷(すごう) 塩手(しおで) 石合(いさい)および親類 寄揆(よりき)(与力)につぎの書状を送っている。両殿様(宗麟 義統)に私曲はないこと、讒者の妨げか、御不満はわからないが切腹を仰せ出されたこと、自分は切腹するが、 統員(むねかず)に相続させしてもらいたいことを記している(「 大分大学文書 」)。紹鉄は、この時点では謀反を起こすことは認められない。もし、積極的な挙兵の意志があれば、親類 寄揆に対して、もっと違った対応をしたのではないか。讒言による処分を一応は覚悟したものの、これに承服できないことから挙兵に踏み切ったのであろう。紹鉄は讒者が誰であるかは記していない。不和が伝えられている紹忍ではないかと思われる。
〈挙兵と結末〉
 紹鉄は 朽網(くたみ)郷 松牟礼(まつむれ)城 (直入町)を出て熊牟礼城に 拠(よ)って抵抗。宗麟は 玖珠郡衆 南郡(なんぐん)衆 (大野 直入町)に討伐を下知。南郡衆は4月に狭間村(挾間町)を進発、2 3日中には熊牟礼城を陥す作戦をとる。謀反鎮定に当たって、田北氏内部の切り崩しも図られる。義統は閏3月、田北八郎に忠義を励むことを伝える。事前工作か。また、紹鉄没後であるが、熊牟礼城にたてこもっている 田北神九郎( 鎮忠(しげただ)) 田北加賀入道( 鎮興(しげおき)) に速やかに下城して、宗家の統員(紹鉄の養子、鎮周の女婿)に従うように勧める。4月、速見郡の士 辻間(つじま)弾正忠 に対して、紹鉄の飛脚(密使)を召し捕るように命じる。折しも国東郡において謀反を起こした 田原 親貫(ちかつら) との連携を恐れてのことであろう。城中で一族から 諌言(かんげん)を受ける。逃走を決意した紹鉄は、逃走径路を朽網郷 阿曽野(あその)(庄内町)にとる。ここで激しい追撃戦をかわして日田郡に向かう。4月13日、 五馬(いつま)荘を経て 松原村 (大山町)にさしかかったとき、 財津(ざいつ) 養父(ようふ) 宝珠山(ほうしゅやま) 堤氏らの攻撃を受け、 財津久右衛門 の手にかかって最期を遂げた。法名清台院殿手翁紹鉄大居士。
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