岩戸遺跡 ( いわといせき)

日本最古の石製人形出土

 大分県の代表的な河川である 大野川 は、 阿蘇外輪山 を源として 別府湾 に注ぎ、その間に多くの 河岸段丘 を発達させている。このような河川の両岸にのこされた棚田状の段丘は、旧石器人の生活の拠点として絶好の地であり、岩戸遺跡もそうした地に営まれている。周辺の 百枝(ももえだ)遺跡 、 上下田遺跡 (三重町)、 津留遺跡 (犬飼町)も同じく段丘上にある遺跡である。
〈学史的にも重要な遺跡〉
 最初の発掘調査は、昭和42年9月に東北大学考古学研究室(芹沢長介)によって行われた(第1次調査)。これは、その後につづく流域の多くの調査の先駆けとなる記念碑的な発掘調査である。この調査では、多数の石器とともに、有名な「 こけし形 石偶(せきぐう) 」が出土し、注目をあびた。その12年後の昭和54年2月の調査では、旧石器時代の集石墓とみられる遺構が発見され話題となった(第2次調査)。次いで同年10月の調査は、遺跡の範囲確認を目的としたものであったが、時期による石器の変化の様相を明らかにすることができた(第3次調査)。これらの成果と遺跡の重要性によって岩戸遺跡は、昭和56年3月に国の史跡として指定をうけた。
〈旧石器人が作った石製人形〉
 第1次調査の際、第T文化層から出土した「こけし形石偶」は、 結晶片岩(けっしょうへんがん) という比較的軟らかい石を丹念に 敲(たた)いて、こけし形に加工したものである。大きさは10cmに満たないが、頭部には、目 鼻 口を思わせる凹みがある精巧なものである。製作者がどういう目的で作ったのか想像できないが、我が国の旧石器時代の精神文化を物語る希少な資料である。
 なお、この石偶の石材である結晶片岩は、近くには産出せず、 佐賀関半島 方面から遠路運ばれたものである。石材の入手の困難さを乗りこえて、入念に作られた貴重な文化遺産である。またこのほかに、その製作途中の未製品も発見されている。調査者の芹沢長介は、この石偶の源流をシベリア地方のヴィーナス像に求めている。
〈石器の組合せの変化〉
 岩戸遺跡では、基盤の 阿蘇 凝灰(ぎょうかい)岩 の上に約3mの 火山灰 層が堆積しており、その間に旧石器時代の包含層が数層確認されている。その中には、カギ層となる AT ( 姶良(あいら)Tn火山灰 層)も認められるが、その下部の石器組成は、典型的な石器に乏しいところからその内容は明確でない。これに対し、AT上部については、かなり詳細にその変化がとらえられている。
 調査の結果、主要な文化層である第6層(第T文化層)は、上下2層の文化層が認められ、それぞれ特徴のある 石器 の組合せを示した。一時期古い下層からは、断面が三角形の 三稜 尖頭器(せんとう、き) (三稜ポイント)と 国府(こう)型ナイフ 形石器と呼ばれる石器がセットとなって出土している。いわゆる横長 剥片(はくへん)を素材とする石器群が主体となっている。これに対し上層では、縦長の 石刃(せきじん) を素材とする小型の ナイフ形石器 を主体とする石器群である。明らかに石器の顔つきの変化を読みとることができるのである。
 下層の石器群は、いわゆる瀬戸内系石器といわれるもので、横長剥片を連続的に作り出す「瀬戸内技法」と強い関連を示すものである。またこれと同一文下層からは、 剥片尖頭器 と呼称される九州地方に特徴的な石器も伴うことが知られている。この三稜尖頭器 国府型ナイフ形石器 剥片尖頭器の組み合わせは、九州地方ではAT直後の一般的な現象であり、従来の石器群と大きな差位がみられるのである。
 上層のナイフ形石器は、縦長の石刃といってよい整った剥片の基部を先端部をわずかに加工しただけの石器である。ナイフ形石器の文化としては、最終段階に近いものと推定される。この種のナイフ形石器は、これまで、 製糸工場前遺跡 タイプのナイフ形石器として知られていたもので、その時期はこれによって明らかになった。
〈日本最古の集石墓か〉
 第2次調査の際、 集石墓 とされる遺構が発見された。こぶし大の河原 礫(れき)を数10個、ほぼ台形に並べたものである。長辺約1.2mのこの集石は、明らかに人為的に配置したものである。その下部を発掘したところ、人骨片、歯片、海産の貝殻片等が検出されている。いずれも小片であるため、現段階で墓地と断定するにはなお疑問点がのこる。
 ともあれ、岩戸遺跡は質量ともに豊富な遺物、なかでもわが国初の石偶の出土及び石器の変遷を知ることのできる複数の文化層、集石墓と推定される遺構の存在等、旧石器時代遺跡としては、大分県のみならず、日本を代表する遺跡といえるものである。
 参考文献 芹沢長介編『岩戸』
[清水 宗昭]

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