田原親賢 ( たわらちかかた)
田原紹忍はキリシタンか
?−1600 戦国時代の武将。 奈多鑑基(なだあきもと) の子。 田原 親邦(ちかくに)( 親資(ちかすけ))の養嗣子となり 武蔵田原家 を継ぐ。妹が 大友 義鎮(よししげ)( 宗麟(そうりん)) の室。宗麟 義統2代にわたる大友家の権力者。官途名は民部大輔 尾張守 近江守。入道して 紹忍(しょうにん) 不思軒。慶長5年(1600)10月4日、豊後国海部郡 佐賀関 で戦死。
〈地位と権勢〉
天正4年(1576)、宣教師 フィゲイレド の書簡に、親賢は兵力 権勢 富貴および政治において当国の第2 3番目の人であり、宗麟から政治の大部分を委任されたとあり、その 寵(ちょう)を受けた。 戸次鑑連(べっきあきつら) は 檄文(げきぶん)で、宗麟が紹忍(親賢)に法外の扱いをしていることを指摘している。親賢は永禄12年(1569)3月、 龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ) 誅伐下知の 加判(かばん)をはじめとして、天正7年ころまで大友家の 加判衆 に任じられている。戸次鑑連 吉岡 宗歓(そうかん) 臼杵 鑑速(あきはや) 吉弘 鑑理(あきまさ) らの死去もしくは移還によって、加判衆が交替する天正初年ごろから親賢の権勢が強くなったと考えられる。親賢は 方分(ほうぶん) にも任じられている。永禄13年10月から天正6年8月までは筑後、天正3年5月から天正6年7月ころは肥前、天正4年8月から天正14年3月までは豊前方分の地位にあった。弘治3年(1557)6月1日、 杉因幡守 の 妙見(みょうけん)下城、武蔵田原民部大輔(親賢)の妙見登城が伝えられており、これよりのち、親賢は 妙見城 督となった。以後、天正9年まで当城督の地位にあった。嗣子のない親賢は京都の公家から 親虎(ちかとら) を養子に迎えるが、その廃嫡後、宗麟の子 親盛(ちかもり) を養子とする。天正9年8月、親賢は妙見城督を親盛に譲与したと推定される。
〈合戦の指揮者〉
永禄2年9月、田原親賢 田原 親宏(ちかひろ) は毛利軍に占領された 門司(もじ)城 を攻略、豊前を平定した。4年、再び、吉岡宗歓 臼杵鑑速、のちに戸次鑑連らとともに毛利軍に奪還された門司城を攻撃、11月、 小早川隆景(こばやかわたかかげ) の救援によって敗退した。永禄8年6月、 秋月種実(あきづきたねざね) の弟 長野筑後守 の謀反により、親賢 親宏は討伐のため豊前に出陣。12年閏5月、親賢は豊前に進出する毛利軍と中津河で戦う。天正6年3月の日向 土持(つちもち)氏 討伐に、親賢は 大友 義統(よしむね) に従って出陣する。同年9月、反対を退けて日向遠征に踏み切った親賢は、大友軍の総指揮官として兵を進める。11月、 日向高城合戦 で大友軍は大敗。1か月後、戦死を伝えられていた親賢は生還したが、敗戦の責任を追求され、妙見城にひきこもった。親賢は苦戦する味方の救援をせず退却したとし、また、この戦いで奮戦した一将があり、田原紹忍(親賢)であるとする史料(『 薩藩旧記雑録(さっぱなきゅうきざつろく) 』)もあり、親賢の評価は分かれている。親賢は天正8年、田原親貫の謀反鎮圧に出陣、11月、逃亡する親貫を追撃し、翌9年11月、 大友 親家(ちかいえ) に従って反大友勢力 宇佐宮 を焼き打ちした。
〈反キリシタン派〉
宗麟の室 イザベル (親賢の妹)が親賢の養子親虎の入信を知って、強硬に反対したため、親賢も親虎の入信に反対の立場をとるようになる。親虎の決心はかたく、天正5年4月、受洗して ドン シマン の教名が与えられた。親賢は カブラル に親虎が棄教するように依頼し、交換条件として キリシタン の教化事業に協力を申し出たが失敗。カブラルと親虎に会堂破壊と宣教師 誅戮(ちゅうりく)を告げて威嚇する。宗麟は親虎の入信に賛意を表明、親家も激励、義統も親虎追放には賛成しない。ついに、天正6年、親賢は棄教を拒否する親虎を廃嫡した。その後、親虎は神父の住院におり、宗麟の 庇護(ひご)を受ける。天正6年、日向での大敗後、親賢らは敗戦はキリスト教が神仏を廃したことにあるとし、神父の追放、会堂破壊などを決めた。しかし、田原親宏が旧領回復問題で親賢に反対したこと、宗麟の厚い信仰によって回避された。
〈大友家除国後の動静〉
親賢は 豊臣秀吉 から3,000石を与えられ、 岡城 (竹田市)の 中川 秀成(ひでなり) に預けられ 与力(よりき)となった。旧主 大友 吉統(よしむね)(義統) は、秀吉の死後、水戸の配所にあったが、恩赦されて京都に住しており旧臣の親賢らと通じて領国の回復をうかがっていた。親賢は吉統の入国に当たって中川氏の紋旗をもち、大友軍の将として参陣、 黒田 如水(じょすい) と対戦する。 石垣原(いしがきばる) (別府市)の敗戦で、吉統は自刃しようとしたが、親賢にとめられ降伏した。中川秀成は、親賢のひきおこした 紋旗事件 についての 徳川家康(とくがわいえやす) の疑いをはらすため、西軍派の 臼杵城 太田 一吉(かずよし) を討つことになった。石垣原敗戦ののち、旧知であった 岡藩 舟奉行 柴山勘兵衛(しばやまかんべえ) のもとに身を寄せていた親賢は、柴山勘兵衛について中川軍に加わる。親賢は村々に放火する戦法をとり、ついに 関神社 (佐賀関町 早吸日女(はやすいひめ)神社 )に放火したため、神主 関作之丞 の怒りを買い、戦線が一吉に有利に展開することになった。10月4日、中川軍は太田方の激しい攻撃を受けて重臣らを失う。親賢も討死した。
参考文献 渡辺澄夫『大分県の歴史』
[芦刈 政治]
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