勅使道 ( ちょくしみち)

都と宇佐八幡宮を結んだ道

 天皇即位や国家変事の際の 宇佐宮 参詣(さんけい)勅使である 宇佐使(うさづかい) の通った古道。平安時代には 和気清麻呂(わけのきよまろ) の子孫が代々勅使に任じられていたので、別名 和気道 ともいわれる。
〈九州までのルート〉
 古代の交通路は 駅制 とよばれ、諸道30里(約16q)ごとに1駅をおき、駅に 駅馬(えきま) を備え、公務での使者は駅鈴を持参し、馬と食糧を使用することができた。その駅務は所属する駅戸が奉仕し、経費は駅戸の耕作する駅田の収穫によってまかなっていた。宇佐への勅使もこの駅制を利用していた。
 京都を出発した勅使が九州に入るまでは、大宰府道が利用されたと思われる。大宰府道とは、都と「遠の 朝廷(みかど)」といわれた 大宰府 を結ぶ道である。平安京を発し、 山城(やましろ)山崎駅から淀川に沿って摂津国府(大阪府)に出て西行し、 播磨(はりま)国府(姫路市)、 備前(びぜん)国府(岡山市)、 備中(びっちゅう)国府(総社市)、 備後(びんご)国府(府中市)、 安芸(あき)国府(広島県府中町)、 周防(すおう)国府(防府市)、長門国府(下関市)などの山陽道の諸国府を経て、九州に入り筑前大宰府にいたる。駅制は10世紀に入ると駅戸の疲弊などのために衰微しはじめる。このころになると駅鈴の持参のみでは宇佐使の逓送や人馬の供給に困難をきたすようになり、摂津 播磨 備前 備中 備後 安芸 周防 長門 豊前 豊後 筑前 肥後の国々が馬や食糧の供給を割り当てられている。また、大同元年(806)には、人馬疲弊のため以後の山陽道の新任国司は西海道の国司に準じて海路赴任すべしという 官府(かんぷ)が出されている。やがてこの例にならい宇佐使も海路をとりはじめる。その初見史料は『 左経記 』寛仁元年(1017)10月10日条にみえる後一条天皇の勅使藤原 良頼(よしより)である。治安2年(1022)の後一条天皇の勅使藤原 資業(すけなり)も海路をとっており、11世紀前半より宇佐使の海路による下向がみられはじめ、鎌倉時代にも海路がとられている。しかし、海路に固定されたかについては不明である。京都−宇佐間の所要日数は、残存史料によれば49日から19日まで非常に開きがある。律令制下の 運脚(うんきゃく)の上京 下国日数は長門国の場合上り21日、下り11日、船は上下とも23日となっている。日数から陸路が海路の判断は困難である。
〈九州内のルート〉
 九州内はいわゆる「 豊前道 」を利用し宇佐へ向かった。九州内におけるルートを考える上で問題になるのは大宰府へ立ち寄ったかどうかである。平安 鎌倉期には、確実に大宰府に立ち寄ったことを示す史料があるが、宇佐宮へ直行したことを明確に示す史料はない。大宰府に立ち寄った後、宇佐宮へ向かったのが本来の姿と考えられる。海路九州に入った場合の着船地に関する確実な史料はなく、豊前今居津ともいわれているが不明。
 豊前におけるルートは、 刈田(かんだ)駅(福岡県刈田町) 豊前国府(福岡県豊津町) 筑城駅(福岡県筑城町) 下毛駅 (中津市) 宇佐駅 (宇佐市)を経て宇佐宮に到る。
〈勅使道の現状〉
 現在、 豊前平野 、 中津平野 には「勅使道(または 勅使街道 )」といわれる道がある。この名称がいつから、どのような根拠で生み出された呼称であるかは、明確に断定することはできない。勅使道の中津市域におけるルートは、福岡県筑上郡新吉富村 垂水(たるみ)から 山国川 を渡って中津市内の 高瀬 に入り、大字 万田(まだ) 湯屋(ゆや) をへて、下毛原洪積台地にかかる ツルドの坂 をのぼり、大字 大貞(おおさだ) 福島 伊藤田(いとうだ) 野依(のより) を経て国道10号線に合流し宇佐市に入る。このルートは現在県道万田四日市線となっており、沿道には 薦(こも)神社 長久寺(ちょうきゅうじ) 是則塚 などがある。四日市までは 大根川(おおねがわ) 笠松 久々姥(くぐば) 千源寺 と国道10号線を左右に蛇行し、飛永−大根川間の一部で国道10号線と合するほかはすべて市道である。四日市から 駅館(やっかん)川 までは旧国道で現在の市道四日市中央通線と閤法鏡寺線である。 郡瀬川 の裏より駅館川を渡り御幡 松隈を経て 呉橋(くれはし) の手前から左折し、生代横町線を経て右折、生代町通りを経て 神橋 を通って 寄藻(よりも)川 を渡り、宇佐宮に到った。
 現在、 化粧井戸 凶首塚 百体社 を経て国道10号線を横切り呉橋に直進する道を「勅使道」とも呼ぶ。呉橋も「勅使のみ通行できる橋」としてその両側が閉ざされており、勅使は古くは勅使道から呉橋を渡り参宮したと説明する人が多い。しかし、勅使下向に関する史料には全く「呉橋」という語句はでてこない。勅使は呉橋経由の西参道は通らず、寄藻川にかかる神橋を渡り宇佐宮境内に入ったのである。江戸期の元禄7年(1694) 貝原 益軒(えきけん) は呉橋を通って参宮しており勅使専用ではないことや、この西参道は 弥勒寺(みろくじ) の真中をつき抜けて上宮へと通じているので、仏教的なものへの忌避の激しい勅使がこの参道を通るはずがないことからも明らかである。
 参考文献 大分県教育委員会『勅使街道』(「歴史の道」調査報告書)
[安田 晃子]

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