天徳寺 ( てんとくじ)

宗麟の造った教会

  大友 宗麟(そうりん) が豊後国 津久見 に建立した キリシタン 寺。宣教師 フロイス によれば、教会もしくは聖堂と呼んでいる。天正14年(1586)には、宗麟が自ら天徳寺と号しており、江戸時代後期に、現在、津久見市ミウチの宗麟墓碑の地が天徳寺御林の内となっていること、宗麟墓地の付近に天徳寺跡という所があることから、当時、宗麟の造った教会を天徳寺と称したのではないかとされる。
〈天徳寺建立時代〉
 大友宗麟は 日向高城 耳川(みみかわ)合戦 で大敗の直後、すなわち、天正6年11月末には、津久見に教会を建てる決心をしていたらしい。フロイスによれば、日向から臼杵に帰還しないで、津久見の寺院に滞在していた宗麟は「予は当地に教会を建てる決心でいるので、一司祭がここに居住するように配慮されたい」と述べている。宗麟は臼杵より3レグワのアクミ(津久見)に甚だ善い家数棟を建て、その中に 弥撒(みさ)を行う立派なる祈祷所を設けた。この土地は宗麟が世子(義統)から老後の休息所として 貰(もら)い受けるはずであったが、昨年(天正10年)に義統がこれを宗麟に与えたという(『 大分県史料 』15)。この家数棟は宗麟の邸宅であろうか。宗麟が臼杵から津久見に定住したのはこの年であろう。邸宅中に設けられた祈祷所は教会(天徳寺)とは異なる。フロイスは、この祈祷所を ノビシャド の聖堂といっており、明らかに私宅と区別しているが、邸内にある建造物には違いない。木造ではあるが、約3,000ルクサドの経費を要したという(前掲書)。宗麟は、翌天正11年10月29日の聖フランシスコの祝日は新しく建立した聖堂で行うことを希望し、その祝日の行事を新聖堂で行っているから、邸内に設けた祈祷所とは別に、新しく教会を建立したと考えられ、その時期は天正11年10月ころということになる。
〈天徳寺建立の場所〉
 天正15年5月23日、宗麟が死去すると、遺体は宗麟の邸内から4人の重臣によって教会に運ばれ、ここで葬儀が済むと、さらに埋葬の予定地である邸宅の庭まで運ばれている。そのとき、教会から宗麟の邸宅までは、たいして長い道のりではなかったという(『 フロイス日本史 』8)。明らかに、天徳寺は宗麟の居宅ではない。しかも、フロイスは、わざわざ、日本人は教会の中には埋葬しない習慣をもっているといっている。したがって墓地でもないことになる。現在、宗麟の墓のある土地が居館のあったところ。この宗麟の墓と小川一つ隔てた平坦な一段余りの土地で、みかん畑になっているところが天徳寺の跡といわれている(増村隆也「津久見の切支丹資料」『大分県地方史』第24号)。現在、津久見市字ミウチにある宗麟の墓(仏式)は、寛政年間(1789〜1801)に 臼杵城豊 が改葬したものである。文化3年(1806)には、この改葬地は天徳寺御林のうちとされているので、この付近に天徳寺(教会)があったと考えるのが自然であろうとされる。今後の精査が待たれる。
〈天徳寺建立の理由〉
 では、なぜ、宗麟は豊後国キリスト教布教の拠点であった臼杵を捨てて、津久見に教会を建設したのであろうか。天正6年の日向進攻作戦の失敗によって宗麟のキリスト教的理想国実現の夢は破れる。前夫人をはじめ異教徒の多い臼杵を離れ、津久見に定住することになる。津久見に移った宗麟は3か所の寺院を焼き払い、教会を建て、百姓らを強制して入信、イルマンを他の2つの町にも派遣して、400人を改宗させた。これは日向においてもとられた行動であった。フロイスは、このころの宗麟の状況を次のように伝えている。「フランシスコ王は元来体質が虚弱で、且つ、老年であり、病気勝ちの為め、彼の生存の希望は漸次減少していった。其信仰と教化の熱心は従前に劣らず、生命の終りに近づくに従い、弥々功徳を積む材料となるべき手段を尽く」(『大分県史料』15)すようになった。その究極の手段が津久見の小天地にキリスト教的理想国をつくることにあったのであろう。日向で実現できなかった夢の再現である。天徳寺(教会)はこのキリスト教的理想国の中心にふさわしい、日本にある最も善い殿堂として建立されたのに違いない。
〈天徳寺の 終焉(しゅうえん)〉
 『 豊後史蹟考(ぶんこしせきこう) 』に「何日の頃にや佐伯の城下に移したりと聞く」とあり、堅田村(佐伯市)のうちの城村にある天徳寺が、宗麟の建立した天徳寺の末ではないかという。佐伯市上堅田長谷天徳寺の檀家に蒲江町尾浦25戸がある。宗麟の近侍の 末裔(まつえい)といい、大友氏除国後、宗麟の墓石と仏像1体を奉持して城村に逃れ、これらを祭祀したと伝えている。寺内に大友宗麟の墓という墓石があるとも伝えるが、にわかには信じ難い。しかし、文禄2年(1593)5月、大友氏の国除が津久見天徳寺の廃を決したことは想像に難くない。
 参考文献 渡辺澄夫『増訂豊後大友氏の研究』
[芦刈 政治]

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