奈多氏 ( なだし)

奈多社司が宗麟の舅に

〈出自と一族〉
 豊後国 安岐(あき)郷 奈多八幡 (杵築市) 大宮司(だいぐうじ)家。社伝によれば、 宇佐大宮司 公基(きみもと) より出自。秀基は 神宮寺(じんぐうじ) ( 天台宗 )を廃して、 報恩寺() ( 禅宗 )を起こしたという。 鑑基(あきもと) は奈多八幡大宮司を継承。その妻は 田北(たぎた)氏 から入る。「 大友田北氏系図 」によれば、 田北 親員(ちかかず) の女子は奈多和泉守大膳大夫鑑基の室とある。鑑基には男子がある。鑑基のあとを継ぐ 鎮基(あきもと) および 武蔵田原家 の 親邦(ちかくに) の養子となった 親賢(ちかかた) 。いまひとり、永禄4年(1561)2月に死去した 政基(まさもと) がある。政基について、田北学は鑑基の子と推定している。鑑基の女子は 大友 義鎮(よししげ) の正妻となった。このほか、弘治4年(1558)のころに 誠基(さねもと) がおり、奈多氏を称している。また、天正11年(1583)のころに 恒基(つねもと) がいる。奈多 宮内少輔(くないしょうゆう)とあるから鑑基の一族であろう。
〈鑑基〉
 義鎮の代に社奉行に任じられ、豊前 筑前 豊後の社家の社領紛争などの裁判、 万雑公事(まんぞうくうじ)免許、祈祷 祭事催促、社殿 神輿新造替の執行、軍勢催促に当たった。その執行に際して、大友氏の政策や自身の権力的態度から 宇佐宮 との 軋轢(あつれき)を引き起こした。永禄4年9月の 到津(いとうづ)大宮司館破却事件 、永禄6年の宇佐宮社家 辛島並時(からしまなみとき) 生害事件、永禄7年の 宮成公建(みやなりきみ) 領 押領(おうりょう)事件をはじめとする非法な行動が多い。このため、宇佐宮から旧例の無視、坊務の専断、新儀の課役、社領の押領、上訴の妨害などで弾劾されている(『 増補訂正編年大友史料 』21)。大友奉行人は鑑基に、当時、合戦( 門司(もじ)城 )の最中であるから、無事の調儀が必要であることを説くとともに、宇佐宮には鑑基に意見したことを告げ、大友家が社法を尊重すること、当時、合戦中でもあるから、国家安全、国守の武運長久を祈願せよと伝えた。また、永禄6年、親賢も 田北 紹鉄(じょうてつ) に対して、鑑基に無分別のことがあれば助言の依頼をしている。鑑基は大友氏の部将として、たびたび、合戦に出陣した。永禄5年11月、豊前 苅田(かんだ)松山合戦 、永禄8年8月、豊前 長野筑後守 討伐、永禄10年、下毛郡 高田 来縄(くなわ)郷 在陣など武家としての活躍も多い。永禄12年7月15日、病没した。享年45歳(「 到津文書 」)。一説に筑前の戦いで戦死ともいう(水口忠孝「奈多氏の研究」『大分県地方史』第47号)。法名は円照院殿円照宗覚大居士。
〈鎮基〉
  増王(ぞうおう)と称し、入道して 宗達(そうたつ)と号する。官途名大膳大夫。母は 田北 親員(ちかかず) の女子、「大友田北氏系図」に奈多左衛門大夫鎮基の母とある。妻は宗麟の女子。父鑑基の死後、大友家の社奉行に任じられる。これより先、永禄12年2月、宗麟出陣に当たって、お 伽衆(とぎしゅう)となった。父鑑基は 高良(こうら)社大祝に増王のことを依頼している。天正6年4月、日向 土持(つちもち)氏 討伐に 糸永(いとなが) 屋方(やかた)氏 らを伴って出陣。つづいて9月には 日向高城 耳川(みみかわ)合戦に出陣。社奉行の権限をもって、宇佐宮社中にも出陣を命じた。このため、神官は清浄の衣冠を脱ぎ捨て、 鎧甲(がいこう)を身につけて戦い、 検校盛勝(げんぎょうもりかつ) 永弘 鎮富(しげとみ) らを戦死させて抗議を招いた。天正8年、 田原 親貫(ちかつら) の討伐に、同12年、筑後 黒木 実久(さねひさ) の討伐に出陣したと伝える。天正14年12月、 戸次(へつぎ)河原の合戦 で 島津 軍と戦って敗れた。また、鎮基は鑑基と同様、宇佐宮と争い、天正7年4月以前、 到津 公澄(きみずみ) 誅殺(ちゅうさつ)事件、宇佐宮末社司宅放火事件、 安心院公糺(あじむきみただ) 領押領事件などを引き起こし、このため、宇佐宮から無道の 張行 、天下希代の悪逆と訴えられている。天正15年8月5日死去。法名は報恩院殿前大官令玉通宗達大居士。養子万福丸は鎮基の死後、帰洛。奈多氏はこれによって断絶する。以後、奈多宮の祭祀は 泥谷(ひじや) 井門氏 が当たった。
〈女子=大友義鎮正妻〉
 大友義鎮が 一色義孝(いっしきよしたか)の女子と離別したのち、天文19年(1550)以後、その妻となる。天正3年ころ、子息 親家(ちかいえ) 、兄 親賢(ちかかた) の養子 親虎(ちかとら) の キリスト教 入信に際して強硬に反対、また、いわゆる エステバン事件 を起こすなど、狂信的な反キリシタン派であった。このため、イエズス会士から イザベル のあだ名が与えられた。受洗を決意した宗麟は、天正6年、この妻を離別。親家の妻の母(教名ジュリア)と結婚した。 大友 義統(よしむね) の母。また、土佐一条氏 久我氏室の母。
〈政基〉
 永禄5年9月、宗麟は 正観寺(しょうかんじ) に対して、政基の 菩提(ぼだい)所とするように命じ、「つぼね」(義鎮の妻ヵ)が正観寺僧にとむらいと、「せっこう院」の位牌をたてることを依頼している。死去は永禄4年2月16日。法名は雪江(紅)院殿雪江(紅)紹瑞大居士。
[芦刈 政治]

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